……………… RYOBI 渓流竿 記事広告 1997 ………………

超自然

more natural more than "natural drift"  
ナチュラルドリフトは、あくまで基本技術にすぎない。
そこに、誘い、惑わせ、挑発し、謀る、いわば超自然的
レタッチを加えることにより、餌に命が宿るのだ。













ヒラタが空から降ってくるわけないわな、
だから瞬間勝負で、食わすのよ。
──撃ちの栗田(源流にて)



前アタリ?
そんなのとれりや超能力者だっての。
── 読みの修三(渓流にて)



アタリは、「待つ」もんじやなくて、
「出す」もんだろ。
── 踊らせ魚賢(本流にて)
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イワナ竿に求めるのは、50cm級でも
タモなしで捕れるタフネスよ
── 栗田善
■撃つ。
ピンポイントにいるイワナを狙い撃ちで狩る。
栗田の釣りは、釣りというよりは射撃に近い。
1)全長120cmのちょうちん仕掛けで、
2)餌は周年ヒラタ一種で、
3)基本的に沈めず、水面で釣る。
栗田の「狩場」は蔵王南麓のある源流で、放流はなく、イワナは警戒心に満ちた野生である。
その野生を、氏に言わせれば、「半径5cmのピンポイント」にヒラタを撃ち、水面で震わせ誘うことによって食わせる。
その強引な釣法によって、先行者があろうが渇水であろうが、本流のヤマメであろうが、
「数釣りでは負けたことがない」
取材当日の気温は32度。渇水ぎみの白昼、週末。
朝マズメに先行者があったかもしれないがほかの釣り人はなし。
つまり、それほど最悪の状況、しかし栗田は2時間弱で、9寸を頭に20尾は上げた。
食い波や底波と呼ばれる、底に沈んでゆく主流に餌を入れ(つまり餌を沈ませ)できるだけ細い糸、小さなオモリでナチュラルドリフトさせる──自然に流すことが主流である現在の渓流釣りにあって、氏のやり方は徹底的に異端である。
「成魚放流のないイワナ場ではとくに、イワナは、春先の一時期以外は水面あるいは水面直下で餌を食う」、と氏は言う。
大きなイワナほど、餌の集まりやすい、流れの緩やかな水面近くに定位してる、淵の底にはたしかに魚はとどまっている、けれどそこは餌場ではない、と言うのだ。
「底をとって深く流しても釣れることはあるよ、せいぜいが縄張りをもってない6寸以下のがね」
「それも、食おうと待ってるやつしか食わんわな」
……餌が不自然に流れたら、つまり、そいつも食わないわけだ。ナチュラルドリフトは、減点法の、シミュレーションの釣りであり、釣り人の創造性や攻撃性を発揮しにくい。
「ヒラタが空から降ってくるわけないわな、だから直爆で、食わすのよ」
基本的に、ヒラタはイワナの鼻先に落とす。氏の言う「直爆」だ。ヒラタが突然現れ、食欲もあろうが、イワナは度を失い反射的に食ってしまうのだろう。
白泡の中やゴミが多いときは手前30cmに撃ち、餌であることをアピールする。バレたときはイワナの後頭部、視野ぎりぎりに打つ。
瀬尻まで追うが食わないときは餌をピックアップし、未練たっぷりに定位置に戻ったイワナの目前にヒラタをを撃つと食うという。
撃って、誘う。
誘いの振幅は、流速や水温により変わる。
ヒラタを2cm上下させ誘いたいのに穂先が5cmプレ続けたら釣りにならない。
「撃ち」は、竿も選ぶのだ。
通常のレベルでは、釣りの楽しみはハプニングだ。魚が食うのは事故に近い。
しかし栗田は、そこまで見て、釣る。
当然だろう。射撃は、獲物を見つけて照準することが前提だから。   
縦に振れば縦に、横に振れば様に振れ、
穂先が意志に従うこと
──諏訪本修三
■道志川は難しい。
釣り人が多く、釣り人の頭の中に、渓流釣りのセオリーという先入観が満ち満ちているからだ。
たとえばヤマメ。
速めの流れにつき、俊敏で、早合わせ……。
「違うんですよ、ヤマメはコイみたいに、吸いこむように餌を食うんです」
道志村で生まれ、道志川を知りつくす諏訪本は言う。
──ヤマメが、コイみたいに、吸いこむように餌を食う?
それには条件が付く。
餌を、定位しているヤマメの目前に、ごく自然に流したら、ヤマメは吸いこむように餌を食うということだ。
おわかりだろう、流すタナや、筋を外すから、ヤマメはあわてて(俊敏に餌を食って)反転せざるを得ないのだ。
それが、ヤマメは早合わせという先入観につながってゆく……。
「ヤマメは、思ったより深い所にいるんですよ」と、諏訪本は続ける。
彼は、ほかの多くの釣り人の先入観を正している。多くの釣り人は、小さなオモリで餌を深く沈めることができないから、「ヤマメは、思ったより深い所にいるんですよ」と、教えるのだ。
道志のように澄んだ川だと実際よりも浅く見えるという理由もある。
食い波とか、底波、沈んでゆく流れに投餌せよというセオリーはある。
セオリーでは、ヤマメは見えない。底波に入れるんだという先入観だけが残って実効性がない。
「ヤマメは、あなたが思っているより、もう20cm、深い所にいるんですよ」
イメージが現実的で、実効性がある。
「ヤマメは、白泡の中に居続けることはできないんです、ストレスに弱くて、夏場はとくに底にいる」
雨後は淵頭に、カグロウが羽化すると浅場に出てくるとかむろんいちがいには言えないが、基本は底。
「トロ場は水温が高そうでしょ? でも
水量があるから案外冷たくて、底流れも
強いんです」
異論のある人はいっばいいるだろう。
諏訪本はしかし、道志で30年間釣ってきたデータを、現実を語っている。
憶測や神秘は語っていない。
「前アタリってなんだよ?」と、彼は言う。
前アタリとは、日印に現れる(つまり糸がフケたり張ったりする)以前のアタリのことを一般にいう。
「そんなのとれたら超能力者だって」
気配とか、勘とかいったレベルの話を抜きにすれば、それはそうに違いない。
諏訪本の釣りには、いつも釣りを妨げる先入観はない。意志に従う、ハイレスポンスな竿によって入力された現実(データ)によって、現実がつねに更新されているからだ。
竹竿は楽器なんだよ、節が音叉になって
感度がいい。力ーボン竿にだって可能なはずだ
──石原魚賢
■逆説ではないか、釣りとはつまり。
魚賢翁の話を問いていると、そう、思えてくる。
翁は言う。
「テンカラ(和式毛バリ釣り)はある意味で簡単だ」
テンカラは、魚が出れば合わせればいいからだ。対し餌釣りは、目印と、竿から手に伝わる微弱な電気で水の中を読み、そのイマジネーションのクライマックスとして魚をヒットさせなければならない。
だから難しく、おもしろいのだと。翁は言う。
「淵尻で食うことが多いって言うだろ」
渓魚が警戒心をもつて餌を追うとき、淵尻(次の落ちこみの手前、つまり縄張りの端)まで追跡したうえ──逡巡したうえ──食うことが多いとされる。
ハリ掛けした時点で餌は死ぬ。
いかにナチュラルドリフトさせても、それだけでは、投餌点から淵尻まで餌は死んでいる、ゴミに等しい。
ナチュラルドリフトは前提だ。
その過程で、いかにフカし、送りこみ、餌を踊らせて食わせるか? 
アタリを「待つ」のではなく、アタリを「出す」か?
それが渓流釣りの醍醐味だと。
イマジネーションとシミュレーションの問の薄膜……。
翁は言う。
「魚に欲があるとダメよ」
魚を捕りたい一心だと自分が主人公になってしまう。
「竿は、振るものじゃなくて、仕掛けを送るものでしょ」
竿を振るとは、自分が主人公だということであり、仕掛けを送るとは、餌が主人公になることだ。
竿は、止めるからこそ仕掛けを送りこむ。
竿は振るものだと意識すると、穂先が死んで仕掛けが飛ばない。
自分にとらわれていると、そういう弊害が発生するのだ。
翁はいう。
「穂先ではなく、仕掛けではなく、それらは、連続したひとつのものとイメージすることが大切よ」
むろん道具の質も大切だ。
「竿とはつまり音響装置なんだな」
竹竿がよいのは、節が極微な振動を共振させ増幅して手に伝えるからだという。
感度とは音波。竿はよき楽器であれ。
翁は、カーボン竿でそれを実現しょうとしている。
イマジネーションの質を、高めるために。
釣りたいのは自分。
釣るために、自分をなくそうとするのもまた自分。