……………… 千葉学と、鎌倉七里・"風の谿"プロジェクト ………………

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室内は台形や三角形、だからこそ、
猫みたいに、 ここでこうしていると
気持ち いいとか、ここが不思議に よく
眠れるとか、発見があり、 暮らしが面白い。


「別の言い方をすればね、野球のルールのようなデザインをしたいんですよ」、と千葉氏は続けた。
野球のルール?
──そう、ルール。
いわば「閾値」だけ決めて、あとはプレイヤー、建築でいえば住人や使う人の自由に任せる。その自由度は、閾値の設計次第なんです。
たとえば、ピッチャーマウンドとキャッチャーがあと3m遠ければ、いかに150kmの速球でもぼかすか打たれてゲームにならないし、3m近ければ誰も打てない。塁間が現在の距離だから、クロスプレイが生まれてゲームがおもしろくなる。
ルールがある一方で、プレイは原則的に選手の自由に任せる。バットの振り方とかいちいち規定しない。だからこそ、イチローとか松井とか、創造性や個性が生まれる。
誰が考えたのか、野球のルールは、野球に限らずサッカーでもテニスでも、スポーツのルールはよくデザインされているんです。
建築もそうあるべき、と思うんですよ……と、言うだけじゃ分かりませんよね(笑)、
鳥が巣をつくりますよね。それは天敵に襲われにくいとか、餌をとりやすいとか水はけがいいとか、本能的、かつすごく慎重に場所を選んで、もっとも合理的な営巣をしているはずなんです。クロマニョン人も、安全で快適そうな洞窟を選んで住んだでしょう。
現代人は彼らのようにはゆきません。住みうる場所も制限されますが、僕は、極言すると現代の住居も「巣」のようでいい、その方が楽しい、と思う。
雨風をしのいだり、防犯とか、シェルター的機能は必要ですが、与えられた環境に対して「開き」、敏感に呼応して、光、風、湿気も匂いも取り入れる。ここのような海辺や、森の中に限らず、都市でもね。都市も、ヒトがつくった自然だから、海とはまたちがった魅力をみつけうる。
環境に呼応しながら、建築のなかは洞窟のようにざっくりつくる。機能を割り当てることはしない。だからこそ、猫みたいに、ここでこうしてると気持ちいいとか、ここが不思議によく眠れるとか、発見があり、暮らしがいきいきする。
住宅も、クルマのようにパッケージ化、気密化して、ボタンひとつで完全空調、24時間強制換気、みたいな流れが一方であります。それはそれで快適ですが、多少寒かったりしても、天窓越しの夕焼けの色に感動したり、漏れてきた風に、雨上がりの匂いを感じたり、ああ、ここってこんなに気持ちよかったんだと、環境と「出会える」家のほうが──僕は──快適だと思いますね。

千葉氏の、そういう「哲学」のかたちひとつがこの七里・風の谿プロジェクト、正式仮称は"alley"(切り通しの意)、店舗と賃貸住宅で、3月中旬竣工予定である。
七里の正面、行合橋の西、工事中の物件を見て、気になっている向きも多かろうが、詳細は後述。
その前に、どのような経緯で、千葉氏はその能力を、哲学をもつに至ったのか。

60年、東京に生まれた。
父は日活の黄金期、美術監督を務め、「黒部の太陽」など大作名作多数を手がけた。
幼い千葉少年は父に連れられ、よく調布の撮影所に出かけ、石原裕次郎や吉永小百合に頭を撫でられた。宍戸錠にはことにかわいがられたらしい。
CGなどない時代である。
現場で、手技で、発想で、チームワークで、ものをつくってゆく姿を、少年は心に焼き付けた。自身、図画工作と音楽が得意で、将来は父のような、何らかの創作的な仕事をしたいと、漠然と夢を描いていた。
のち、父は70年の大阪万博プロデューサーに転進。岡本太郎とも懇意で、千葉少年は"太陽の塔"や日本政府館が建ちあがってゆく過程をつぶさに見た。
万博閉幕後、跡地での、黒川紀章の設計になる民族学博物館建立にも、父は携わり、少年は建築家の仕事を肌で感じた。
それらはマクロなトピックなのだがミクロなそれもあって、同時期、世田谷の実家を増築したのだが、大工の仕事を飽きず眺めていた。かれらの手技が具体的な構造になってゆく過程が面白く、一時は飛びきりの大工になろうと思っていた。
中学に上がる頃には、建築家に──考えたことを、現実の空間として残す仕事をする人に──なろうと決めていた。
そのために最善と考えられるステップとして、丹下健三を始め、磯崎新、伊東豊雄ら錚々たる建築家を輩出している東京大学工学部建築学科を目指す。
一浪後無事合格。その講義は期待に違わず、建築士養成的なそれではなく、徹底して「デザイン」を考えさせられた。たとえば、当時の教授、槇文彦(モダニズムの代表的作家。東京体育館、幕張メッセなど)には、「その空間を旅するように」デザインせよ、と教えられた。
東大大学院に進み、87年修了。
日本設計に7年勤務し、独立。2001年、千葉学建築計画事務所設立。東京大学大学院准教授。近年ますます多忙で、その仕事は内外で注目されている。

筆者(TOKO)は、この20余年、あらゆる職種の方々──プロスポーツ選手、市会議員、日産の技師、ドトール経営者、美容整形外科医、サーフボードシェイパー……──を取材してきたが、ことに建築家は、特異的に話しが面白く、魅力的な人物が多い。
かれらは、人間も、社会も分からないと仕事が出来ず、具体性と抽象性を併せ持っている。
工学的な素養はほんの前提で、クライアントの生活シナリオを描くという意味では文学的、カウンセラー的能力も要る。建築は受注生産で、試作できず、つねに一発勝負で、目に見えず、触れないものを、数千万、数億円で買ってもらわねばならない。そのためのプレゼンテーション能力。コミュニケーション能力を前提とした施工チーム統率力も必要だ。
竣工した建築はそして、デリートもアンドゥもできず、その結果を、何十年にもわたって評価され続ける。
生き残り、名を成している建築家すべてはそれら総合力を有している。

千葉学を形成した要素の重要なひとつに、ネイチャースポーツがある。
10歳にして、通っていたYMCAのリーダーのお兄さんによって、自転車に出会った。自転車も、風とテレイン(地形)のネイチャースポーツといっていいだろう。中学にあがると自らランドナーを組みツーリングするようになり、ロードバイクでレースを始めた。47歳の現在もロードバイクにまたがっている。
大学入学、ヨットを少しかじり、ニュースポーツとしてハワイから輸入されたウインドサーフィンを始めた。
79年のことである。鎌倉、逗子、葉山まで走っても数艇も見なかったというから、パイオニアのひとりといっていい。
千葉はすぐに魅了されてしまった。そのシンプルさとダイレクトさ、力学的原理と効率に。
ヨットも風で走るが、風の力は、じつはあまり感じない。セイルパワーは体ではなく船体に伝わる。
ウインドサーフィンは、セイルパワーを体でボードに伝える。足裏で直接、スピードによって変わる海面の硬さを、カーヴィングするとそのソリッドな弾力を感じる。自然とのかかわりがよりダイレクトなのだ。
千葉はウェイブライディングに夢中になり、吹けば必ず、講義をふけ、坂の下か材木座にいた。ウインドのプロに、何やってる人なんですか、と聞かれた。当時、フロントでクリーンなオフザリップを決めるウェイブライダーはそうおらず、ショップに、ライダーにならないかと誘われたこともあった。
社会人になって──休日に波つきで風が吹くとは限らないので──サーフィンを始めた。セイルが無くなり、スピードと機動力は失われたが、海との関係は濃くなった。
脚に感じる海水温、ボトムとフェイスの表面張力差、リップのパワー……。手がブームから、足がストラップから解放され、自由になり、創造性が生まれた。
ヨット→ウインド→波乗りと、道具だてがシンプルになるほど、自然からの入力が増し、自然とより対話できるようになった。
ならば裸で泳げばいい?
それは違う。
イルカではない、そこはヒトなのだ。
サーフボードという道具が介入するからより楽しいのだ。
「海に対するサーフボード的なインターフェイスで、環境と対話するような」建築、を千葉は考えるようになった。
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道具だてがシンプルになるほど、
自然からの入力が増し、自然と
より対話できるようになる。


"alley"の施主はサーファーである。
この地に宿る神をかんじる建築家を探し、千葉に依頼した。
千葉にとってもこの場所は特別だった。グーフィーのかれにとっては、七里正面が、いちばん愛着あるブレイクだった。その真正面の立地である。
第一に、海と山が迫る鎌倉らしい地勢に、サーフィンクラシックたる歴史に、なじむ建築にしようと思った。が、それらを尊重するだけに終わらず、そこから新しいものが生まれる、何らかのハイブリッドを実現しようと思った。鎌倉自身、伝統に、常に新しいなにかを加え──波乗りもそのひとつだ──その魅力を高めてきたのだから。
文で説明するより、前掲の模型写真を見てもらう方が早い。
鎌倉の山々の谿のように「切り通し」が設けられている。風が渡り、太陽の位置によってプリズムのように光りがかわる。
切り通しによって、建築のどこにいても、鎌倉の海と山が見える。切り通しによって切り取られることにより、新たな風景が──環境との「対話」が──生まれる。
切り通しによって、店舗、住宅となる個々のユニットは、台形や三角形。使い、住みこなすのに──クロマニョン人が洞窟で考えたように──工夫が必要だ。
外観はエッジが立って近代的だが、コンクリート打ち放しの外壁は再生型枠を使い、ラフでランダムな仕上げに。昔からここに建っていたかのように。
切り通しの「路地」は、たとえば根津千駄木のそれのように、住民が鉢植えを置いたり、猫が棲み着いたり、観光客だけではなく地元のおばちゃんがランチを食べにきたり、そんなふうに「生活」が根付けばいいと思っている。

竣工予定は3月中旬。レストランや店舗のテナントオープンはGW前になる見込みである。
一部は賃貸住宅となるが、200平米の物件などは、このロケーションを勘案すると賃料100万を越えるのではないか。オープンすれば、ヒルズ的なステイタスと湘南ウォーカー的な観光名所として注目されるだろうが、千葉はしかし、そういう場としてのみ機能させたくないと考えている。
"NO BRAND"がテナントとして入ることが決定している。サーフボードシェイパー出川三千男氏の店だ。千葉とは、大学時代、ウインドのウェイブボードを削ってもらって以来のつきあいで、今も波乗りの師匠である。
出川氏、"alley"アドバイザーのひとりでもある。
千葉は──まだ夢想段階だが──出川氏と、こんな想を練っている。
ここで、地元の子どもたちを集めて「こども日曜教室」を開けまいか。
千葉には、10歳の時、YMCAのお兄さんに、自転車を教えてもらった素敵な思いでがある。自転車だけでなく、お母さんがつくってくれたお弁当を残しちゃいけないとか。教えはじぶんの人生をいい方向に導いてくれた。
日曜日の朝、子どもたちとともに朝食を摂り、波があれば出川センセイが波乗りを教え、なければ千葉センセイが自転車で引率し鎌倉近代美術館や古刹に行き、建築を教える……。