……………… カイテキではなくヨロコビ 下平万里夫が建築する「宇宙」 ………………

biography_0710-1.jpgfoto by M.Matsuoka
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自然とヒトのインターフェイス          

「鎌倉・波待庵」

■ 土地の選定から関与し、得た、このロケーションを目前に、建築の出来ることはなにか?
考え抜き、海の色・光・風を最大限に楽しむための環境増幅装置に徹する、換言すれば、装置としての建築の存在感をいかに消すかにポイントを絞った。
たとえば、リビングとバスルームの木製サッシュを、全開、全閉時とも全て柱のなかに納め、内と外を隔てるガラスやサッシュの存在を消した。
よくあるように、光や空の移ろいを取り込むなら、フィックスの大窓の方が簡単であろう。しかし、風や波の音、空気感を遮断するつもりはななかった。存在を感じさせず、万全に機能するプリーツスクリーンの網戸を、柱の中に仕込んだ。

海に面した南面は、暗色の軒を、低く、長く伸ばし、室内への強い日射を避け、かつ、室内から眺める海の碧を強調した。室内も墨や柿渋を塗り、色を沈め、海や空の微妙な変化も感じ取れるようにした。
自然の恩恵はその美しい姿だけではない。夏は海からの涼風が吹き抜け、エアコンが必要な日は少ない。冬は、低くなった日射しがリビングの奥まで差し込み、晴れた日中は暑いほどである。
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家族や友との仲を深化させる家   

「鎌倉・H氏邸」

■波待庵、H氏邸とも、自然との、ヒトとのコミュニケーションを深化させる機能をもつが、このH氏邸では、後者について述べよう。
H氏はパイロット、サーファーの奥様、小学生のお子様がふたり。
H氏、友人を招き、プロ並みの腕で料理を振る舞うのが趣味、といういい人である。
窓外に稲村ヶ崎と相模湾が広がる2階のLDKは、ごくプライベートながら、ビジターを歓待する種のそれ、隠れ家的バーのようでもある(勘定は張りそうだ)
フロアレベル設計が巧妙で、店舗的に広いダイニングテーブルに続くオープンキッチンの床は低くなっている。
椅子に着いた「客」と調理する人の目線が同レベルになり、話しが弾むのである。
子供部屋も2Fにあるが、リビングを経由しないとアクセスできないから、パパママとのコミュニケーションが発生する。
勉強机は個室ではなく、リビングの一角に。落ち着いて勉強できるよう、塹壕的に低くなっている。
キッチン横の畳敷きの小上がりは、海を見ながら酒を飲むパパの特等席。
「おーい、あしたの父親参観な、」
大手ゼネコンで、デザイナーをしていた。
30平米の社宅に住んで、一泊30万の
スイートをデザインしていた。
それはバーチャルな仕事だった。
フィジカルな、矛盾のない仕事をしよう、
「僕の歌」を、歌おうと思った。

■ 大手ゼネコンでデザイナーをしていたとき、クライアントの、スイスの5つ星ホテル支配人の、接待の席に呼び出されたことがあった。
「うちの下平もヨットをやるんですよ」と、上司が振った。
こないだのバカンスはね、と支配人、
家族で1ヶ月、地中海をクルーズして、島巡りしたよ。
ディンギーで、江ノ島で、スプレイでびしょ濡れになっている僕とは次元が違った。
「君が提案してくれた、スイートルームの、ウイルトン織り絨毯、30ミリだね。私は25ミリの方が上質だと思うがどうだろう?」
田無の、築20年の、30平米の社宅に住んでいた。30ミリの絨毯を靴で踏んで歩いたことなどなかった。
朝から晩までオフィスに籠もり、陽ではなく蛍光灯の光を浴び、懸命に「自分には縁のない世界」のデザインを考えた。
深夜、くたくたになって、社宅に帰ってからも、狭い食卓に向かってスケッチした。
生まれたばかりの長男がよく夜鳴きをした。泣き声から逃れるため、布団をかぶって横になっていると、なんだか不安な気分になり眠れなくなることがよくあった。
僕のデザインは認められもしたが、認められても、どこか居心地が悪かった。
文献を当たって、想像する、バーチャルな仕事だったからだ。それは、触感や、実体験に即した、フィジカルなものではなかった。
支配人は後者だった。体験し尽くした上質を、一泊数十万のスイートを利用するような顧客に、確信をもってプレゼンしている。
…………。
「いい歌だから僕も歌う、君も歌わないか。」(浜野安弘・質素革命)
そうだ、僕の仕事もこうあらねばならない。まず、僕自身が、自然体で気持ちいいと感じられる生活をしよう。そして、それが本当に素敵だと確信できたら、お客様にも提案しよう。
嘘の無い、矛盾の無い仕事をしよう。
「僕の歌」は
明らかだった。
海、だ。

高校はヨット部、三浦半島の先で合宿に明け暮れ、大学ではウインドサーフィンに打ち込み、世界選手権の強化選手になった。
35のとき社を辞め、独立。
妻、小1の長男、生まれたばかりの長女を連れて社宅を出、その後、現在の葉山一色に自宅兼事務所を設けた。
葉山移住は、海のそばで暮らしたいという僕自身の夢、健やかな家族生活の実現、フリーランスの建築家としての成功、それら3つを期する賭けだった。
そこに仕事があるのか、受注できるのかという不安に加え、都内で進行中の現場監理や、模型材料・設計用品はどこで買うかといった、些末だが現実的な問題が山積したが、強引に決断した。
──9年を経た。
いまも現実と格闘していることに変わりはないが、「僕の歌」を歌ったことは正解だった。

海辺に、僕は暮らし、デザインをし、たとえばここに挙げた2例のような──住宅ではなく──生活づくりのお手伝いをした。
各論は2例を参照いただくとして、ここでは、僕の思想(、は偉そうだな)ビジョンを述べさせてもらおう。
前提として、住宅というパッケージではなく、それが実現する生活を、デザインするのだということ。
「ヨットが欲しい」と言うとき、彼は、飾って眺めたいから、ハードウエアとしてのそれが欲しいのではなく、
「一緒にセイリングすれば、最近こころが通わない、高校生の息子と、昔のように話せるのでは」などと、ヨットがもたらすストーリーを描いているはずなのである。

具体的方針は3つ。
1、カイテキではなくヨロコビ。
2、自然とヒトのインターフェイス。
3、家族や友との仲を深化させること。

まず1、箱根に行くのに、運転手つきのベンツか、自分でバイクを運転してゆくのかという話しである。
ベンツは快適に違いない。バイクは雨に降られたりもするだろう、ヨロコベるのはどちらだろう?
住宅で快適性ばかりを求めてゆくと、完全空調、24時間強制換気、どんどんインテリジェントビルみたいになってしまう。快適には違いない、けれど風や雨の気配は、遮断され、感じられない。五感は退化してしまう。
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僕のこの事務所(前号14ページ参照)、こんなに大きな天窓が開いて、空調はしていない。室温28度、湿度75%かも知れない。けれど風が抜けて、雨や潮の匂いも感じられる。
どんよりと曇った日、デスクワークに没頭して、夕方ふと目を上げると、天窓の向こうの空がオレンジに染まって、鳶が舞っていたりしている。
そういうことにヨロコビが見いだせる方ならば。

2、自然とヒトのインターフェイス。
立地環境が、住む人にヨロコビを与えてくれるなら、家はその増幅装置に徹し、自身が主張すべきではない。
(都市部などで環境が悪い場合は、逆に、シェルター的機能を要する場合もあるが)
この好例が先に紹介した波待庵である。詳細はこのケーススタディを参照されたい。

3、家は、家族や友との仲を深化させる装置であるべきだ。
前項同様に、僕が大事にしていることだ。これも、次に紹介するケーススタディ・H氏邸を参照。

最近は「海辺の建築家」と呼ばれ、僕自身もそれを標榜している。
いつかの支配人のように、実感し、こころから素敵だと思える世界を、自信をもって、顧客に提案できるようになった。しかし決して、僕的世界観のクローンをつくりたいわけではない。
縁あって僕の顧客になる方々は、職業や履歴は百様だが、ある属性がある。
海で遊ぶことが好き、社交的、お酒が好き……。
かれらとの共同作業を通じて、ハイブリッドが、新たな価値、遺伝子が生まれる。それがいちばんの「ヨロコビ」かも知れない。(談)