クセモノ・クライアントへのシナリオ(生活処方箋)
そのプランの、作例はないんです。 と、話し始めた。 お金を出してるから、ディレクターに、もっと右とか左とか指図し、自分が望むように出来上がってゆくのを眺めていればいい。施主はプロデュサーなんです。僕はディレクターであり引き出しです。まず僕の引き出しを開けて、こんな暮らしもあるんだと、ウインドウショッピングを楽しめばいい。 でもお施主さんたちは一般に、「将来」に縛られていて、自分がほんとに欲しいものが分かってなくて、家造りを楽しめなくて、家で遊べません。 まだ生まれていないのに子供部屋を作ったり、「将来資産価値が上がると聞いたから」とライフスタイルに合わない4LDKにこだわったり……。 建築家としての僕の仕事は──偉そうですけど──クライアントを幸福にする(生活の)シナリオライティングだと思っています。ある種精神分析医のように問診して、その方の「素」を曝露して、そこに帰ると外のストレスがデトックスされるような、そこで過ごすことがアミューズメントでもあるような家を実現することです。 さらにいえば、クライアントの現在、5年ほどのスパンですね、にフォーカスするという意味で贅沢な家ですね。 10年後、子供がどうなってるか、自分が生きているかさえ保証はないですよ。 たとえば、今は必要の無いスペースは仕上げず、がらんどうにしておく。何にも無いけれど卓球できるよと(笑) いま必要のないものにお金を使わず、将来リノベーションが必要になるときに回す。合理的です。まあそれは一例。 このとき重要なのは、僕がプレゼンするのではなく、クライアントが自主的に選択することです。 究極的には二択を心がけています。問診すると数種のオプションが浮かびます。違う方向のそれを捨て、ふたつに絞って訊くんです。 「AとB、どちらがいいですか?」 映画マトリックスのレッドピルとブルーピル、究極の選択じゃないんです。どちらが選ばれてもいいんです。 Bですか、じゃあ次は? 二択を数度繰り返すことで、only oneの解にたどりつきます。 このとき、証拠を見せてくれとよく言われるのですが、証拠、つまり作例はないんです。その方のシナリオは、その方だけのものですから。 それで(仕事が)うまくゆくのかって? おおむねうまくゆきますね。僕に依頼すると決めた時点で両者はすでに「出会って」いて、縁があったからとしか言いようがないんですけれど。 やや抽象的な話しになりましたが、この具体は左記からのコラムを見てください。 完全にニュートラルな人なんていません。それぞれ偏向した3名の仮想クライアントを立て、それぞれに対する「シナリオ」を描きました。 もともとグラフィックデザイナー志望で、巣鴨の本郷高校に当時あったデザイン科に進んだんです。絵が得意で適性があると思ったし、大げさにいうと、神様の職業はデザイナーじゃないですか。デザインには人や社会を変える力があるんじゃないかと。 高校時代、デザイン事務所でバイトしたんですが失望しました。子供が生意気ですが、そこでいうデザインって企業の道具で、気取ってるくせ大衆におもねていて、クリエイティブではなく調整的で、ここにいて10年後20年後どうなるんだと。 日本の美大を目指すのもどうか。 アメリカのアートスクールに行こうかと。作品審査があったんです。欧米的なものをいくら上手に描いてもウケないだろう。横溝正史を読破したくらいで日本の土着的なものも好きだったから、西日暮里の骨董屋で不気味な日本人形を撮影、それをモデルに、下から照明を当てた、おどろおどろしい絵を描いた。まんまとあたって(笑)、入れてもらえました。オレゴンの州都ポートランドのベイシストカレッジです。 デザインとは何か、が分かりました。日本の教師は生徒にデザイン学を教える「教師」ですが、アメリカの講師は現役第一線のデザイナーでした。シカゴで超高層ビルを手がけている建築家がエクステリアの構築理論を語ったり、 |
NASAのスペースシャトルのそれを担当したデザイナーが人間工学的インテリアについて語ったりするんです。 彼らは、実戦的かつビジョンがあって全体をコントロールしている。つまりディレクターなんです。絵なんか上手くない。僕の方が上手い。絵の上手いやつなんかごろごろしている。それを雇えばいい。 高校時代、僕も訓練しましたが、それは上手に絵を描く技術の訓練で、いい絵を描くための訓練ではないと思い知らされました。 ディレクターでないとデザイナーとして自立できないんです。そうでなければ、ただのお絵かき上手なデザイン職人で終わってしまう。 絵を上手に描くのは簡単ですが、ディレクターになるのは難しい。 まず実務で第一人者となり、理論を知り、現場を知り、社会が分かり、ひょっとしたら恋や喧嘩の場数も必要かも知れない。難しいだろうけどアメリカでデザイナーを目指そうと。建築を選んだのは、建築家の講師陣のことばがいちばん強かったからです。 日本に帰るつもりはありませんでした。いまでもそうですが、日本には一般に「デザイナー」という職種がなく、デザイン職人という駒になるしかないからです。 カレッジに通いながら、コンドミニアムを設計する会社でインターンとして務め、卒業したら入社の内定をもらっていました。お金のためにコージージャパニーズキュージーヌという一流のレストランで働き、カウンターやロゴのデザインをし、鮨を握っていました。当時LAレイカーズのスター選手だったマイケル・トンプソンや自称ドラッグディーラーの上客がつき、チップは100ドル札、一時は建築家をやめて鮨屋にしようかと(笑) でも、レーガン政権下、イミグレーションの方針が変わったんです。交渉しているうちにビザの期限が切れてしまい、半強制国外退去、日本に帰るしかありませんでした。 80年代半ば、バブルの勃興期で、“Japan as number-one”などともてはやされて、日本で通用すれば世界のどこでもみたいな多分に怪しい風潮があって、ならば日本で箔をつけてアメリカに凱旋してやるかと、まあ僕も若くて(笑) 日本の、商業施設を手がける会社に就職したんです。 マスタープランではないですが、TDL、イタリアントマト、鴨川シーワールドなど有名物件も手がけましたよ。若手で売り上げトップになって、日本にいながらポートランドに家を買ったんです。近い将来帰るつもりだったし、不動産を持ってるとイミグレーション上有利ですからね。 ずっと欲しかった知人の家で、12万ドルの建て売りだけど、リバーフロントで桟橋がつき、ヨットのおまけつきでした。 ところが、わけあって、その家が僕のものになってから、そこで30分しか過ごしていないんです。隣家のクレームで芝を刈りに帰っただけ(笑) いまでも、その家の平面図はもちろん、収め、仕舞いの詳細まで描けますよ。縁がなかったけれど、皮肉にも僕の住宅デザインの「ソフト」になった。 26歳のとき、最初の(笑)、結婚をしたのを期に、3年勤めた、日本のその会社を辞めて独立したんです。 同時に、横浜の関内にセルフプロデュースしたイタリアンレストランを──虎の子のポートランドの家を売って資金をつくって──出したんです。会社で手がけた店はヒットしていたから、その関内の店を広告塔にし、かつ儲けて、ゆうゆうとデザインをやる、と気分は順風満帆ですよ。 ところがこの店がいけない。まず開店資金、ドル127円で買った家、売るときはドル80円台!、それは仕方ないにせよ、こん身で手がけた店、地元の名士たちも、物珍しさから一度は来てくれ、さすが気鋭のデザイナーだとか褒めてくれるんだけど、リピートしてくれない。月100万単位の赤字ですよ。 いま思うと、2階の店への通路をわざと狭くし、店内はルソーの絵のような洞窟風に、と“デザイナーズ”の悪い見本みたいなものだったですねえ。 同時期、一発挽回しようと施工込みで請けた小岩の焼肉店、竣工後支払いのないまま施主が夜逃げし、支払いだけが残り……。 底のときはそんなもんです。けっきょく僕は(ディレクション能力がある)デザイナーでございと慢心しているだけで、ただのお絵かき上手なデザイン職人だった。しかも事務所と生活を維持するためにはそれに徹し、1枚いくらの絵を量産するしかない。 |
charactor illust by A2 → download to read 重宝もされました、平面図はもちろん、(通常は別料金の)インテリアパースも描く。コンセプトを創ってプレゼンする、若いからよく動く、現場監理にも日通うんだぜあの熱血あんちゃん、ってなもんです。 定収入が欲しくて、アメリカ仕込みの「どこにも嘘はついてないけれど、10倍ほど誇張した」履歴書を書いて、中央工学校講師の職を得たんです。 教壇に立ってがくぜんとしました。学生たちが学んでいるのは、CAD の操作法や仕舞いのイロハなど、まさに「絵を上手く描くための技術」でした。 オレゴンのカレッジで学んでいた頃の初心やココロザシ、当時の(真のデザイナーだった)恩師たちのことがよみがえりました。 僕なりにデザインの本質を教えようとしましたが、ひるがえって自分自身を観たとき、そんな偉そうなことが言えるのかという自答もありました。 それがターニングポイントだったような気がします。自分が持っている商品は自分しかないのだから、セルフプロデュースするしかないのだと。 僕はいつも人に助けられるのですが、91年、つきあいのあったある会社が、顧問として迎えてくれました。僕の能力を買ってくれた面も多少はあったでしょうが、いくら仕事をさせても低額の顧問料(たしか月20万)で済むという経済性によるものでした。 じっさい僕はもっともっとと仕事をこなし、ビッグプロジェクトや有名建築家の「ゴーストライター」などもやるようになりました。たとえば僕は、日本人には珍しく──前述オレゴンの家のエピソードもあって──洋館のデザインも、英語のメモつきで描けました。顧問という立場から経営のアドバイスもしました。そういう立場からは、経営や市場のことがよく見えるものです。 それから十数年、日本の業界はいまもハード重視、ソフト(デザイン)軽視ですが、そんな状況と戦い、数社と顧問契約する、欧米スタイルのデザインラボとなり、自分自身、最近になってようやく、 「デザイナーです」と名乗れるようになりました。 |