………… SURFER'S HOUSEは、「人」である。建築家・原田隆英氏と自邸 …………

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1963-1986          
牛舎の思いで。波乗り。仲間ができ、
リーダーになり、ショップを開く

原田隆英氏は、少年時代、自分の「城」を持っていた。広島の実家が兼業農家で、高校に上がったとき、母屋と離れた牛舎の二階を自室として与えられたのだ。原田少年はその部屋を思うさま改造した。畳ベッドを自作し、土間を追加した。
6頭のホルスタインの臭いが多少気になったが、木の柱と土壁、自然素材の牛舎の「触感」は心地よいものだった。
これが原田氏のその後を決定した原体験のひとつである。もうひとつは波乗りであるが、後者は原体験ではなく、キャリア40年、現在進行形である。

原田少年、牛舎体験から、インテリアデザイナーを志した。学部があった法政大を受けるも失敗。国士舘の建築学部に進み上京、下北沢にアパートを借りる。入学後ほどなく先輩に外房勝浦に連れてゆかれサーフィン初体験、夢中になる。
大学へは、下北沢から小田急に乗り、鶴川で降りるのだが、乗り過ごし、終点の片瀬江ノ島で降りるのが常だった。まだヘタで、一日中くたくたになるまで乗り、しこたま海水を飲んだ。帰りの小田急、疲れでがっくりと首を垂れると、鼻から、鼻水と砂混じりの海水がごぼっと出た。それで目覚め顔を上げると、ギョッとして見ていた対面の乗客が慌てて目を背けた。
大学時代は波乗りに明け暮れほとんど勉強しなかったが、なんとか卒業し、広島に帰った。
新聞広告の代理店に就職。瀬戸内海だから波が無く、サーフィンは諦めるしかなかった。ところがある日、上司と島根に出張に行くと、良い波が割れているのではないか。原田は上司を口説いてサーファーにし、それからは島根出張にはボードを2枚積んで行くようになった。
やがて波乗り仲間ができ、それが2、30人に達し、原田はそのリーダー的存在になった。
70年代初めのことである。広島には、波乗りの情報も物資も不足していた。原田は、大学時代に知己を得た茅ヶ崎のジョージ藤沢からボードを仕入れるようになり、そのような成り行きで、プロショップ“シーバード"を開くことになった。
中国サーフィン連盟の会長になり、四国や九州の連盟と交流、大会を開いた。
時間ができると原田は、四国九州にサーフトリップに出かけた。すでに知られたポイントに行くのではなく、ことに九州では、車で海岸線を流し、未知の波を探すのである。
夢のような、ホロウな波が割れていて、誰もいない。海底がどうなっているか不安だが、一本乗ってしまうと底のことなど忘れてしまう。
その海には自分ひとり、テトラに座った彼女が見守っているだけ。そんなことが何度もあった。そんな時代だった。いまでは有名な宮崎の内海も、原田が初めて乗ったかも知れなかった。
車はVWバスで、布団を積んでいた。海沿いの駐車場で泊まるのは、騒々しいので好きではなかった。山に入り、林道脇の森の中で、海で獲った魚や貝を食うのが好きだった。

1986-1988           
ショップを潰し借金を負う。工場季節工など
を転々としたあげく、建築外壁職人に。
見習い経験7日で独立

店は12年続いた。12年しか続かなかった。原田は波乗りに溺れすぎた。1ケ月2ケ月と店を空けて、ハワイやバリに行くのでは、経営がうまくゆくわけがなかった。
店をたたみ、原田は長い九州サーフトリップに出た。若いサーファーたちの面倒も、もう見なくてすむ。久しぶりに、自分のためだけに波乗りしたい。そんな気持ちもあった。
しかしその旅は楽しいものではなかった。閉店に伴い、原田は千万単位の借金を作っていた。40を目前として、負債を負ったうえで、再出発せねばならなかった。当座の生活資金も、底をつきつつあった……。

彼女(現在の奥様)はそれでも原田のそばを離れなかったが、原田は初めて、彼女を実家に帰し、単身川崎に出、大手自動車メーカーの季節工になった。寮があり、宿と飯に金がかからず、ボーナスがでた。
鋳型から出てくるトラック用エンジンブロックのバリを電動ハンマーでハツるきつい仕事で、危険が伴った。
防護ゴーグル、防護服、防塵マスク。薄暗い工場、蒸し暑く、息苦しく、絶え間ない騒音。それは大海原で深呼吸してきた原田にとって耐え難いものだった。
彼はある意味、それまで夢のように生きてきた。危険な、騒音に満ちた工場の、防護服のなかで彼は思った。これが現実というものなのか──。
すると波に乗った昨日までの日々が遠い夢のように思えるのだった。
ボーナスをもらうと同時に工場を辞め、逃げるように、「波乗りに来いよ」と言ってくれた四国の友人の元に。
昔の仲間はありがたいもので、その実兄が経営する、横浜の、梱包大工の仕事を紹介され、そこでは、彼女を呼び戻して一緒に住むためのアパートまで借りてくれた。
原田は懸命に働いた。経営者が精一杯の待遇をしてくれているのも分かっていたが、とても足りなかった。生活するだけでは不足で、大きな借金を返さねばならなかった。
雇われての、サラリーでは無理だった。自営的な、働けば働くだけ実入りになる仕事を探し、建築外壁の職人が稼げると知った。
当時、古い住宅の外壁をサイディングでリフォームすることが流行っており、バブル期で仕事はいくらでもあった。頑張れば頑張っただけ稼げた。腕があれば、という条件がつくが。
原田はある工務店の門を叩いた。
経験は?、と聞かれた。
無い、と原田。
無きゃしょうがねえよ、と相手は呆れた。サイディング職人になるには少なくとも2年程度の経験が必要なのだ。
なんでもできるから、と食い下がり、相手は根負けし、そこまで言うなら明日からどこそこの現場に見習いで入ってみろよ、と言ってくれた。
その現場で、原田は必死に学んだ。こういう収めの場合こう切断するなどと、一片も漏らさずメモした。一週間で我慢できなくなった。
「おれに現場を一件、任して下さい」
と親方に言った。
見習い一週間で独立させろと言っているのである。親方はきょとんとし、取り合わなかったが、原田のあまりの剣幕に負け──たぶん諦めさせるつもりで──収めに頭をひねるような難しい部分を指し、「そこ、やってみろ」と言った。
原田の仕事を見、親方はひとつの現場をくれた。それだけではなく、払いは後でいいからと道具まで揃えてくれた。
このあたり、技術もむろん、原田の、無理を通しても嫌みにならないキャラも手伝っていると思われる。
ともかく彼は外壁職人として独立した。40歳になっていた。

──弊誌が言う“Surfer's House"は、サーファーが住む家という意味ではなく、サーファーが持つ自然観、生活観を満たす家という意味である。
原田氏はサイディング職人としてキャリアをスタートし、工務店の社長になり、建築家になった。現場の、収めや仕舞いというディティールから、デザインという大局まで、建築の全断面をコントロールできる建築家は希有である。さらに現在の氏は、“サーファーズハウス建築家"といえる。
ここに紹介した、3年前に建てた自邸がそのデビュー作だった。

1988-2002          
3年振りの海。その日の稲村は、
じつに何年に一度という、
グーフィーの5-6が割れていた

話しは戻る。サイディング職人として独立した原田は、妻を助手に、足場を組むところから、現場をひとりで、普通の職人の倍の件数をこなしていった。
仕事は軌道に載り、がむしゃらに働き、気づくと3年が過ぎていた。
その間海のことは忘れていた。
若干の余裕もでき、久しぶりにボードを出して埃を払うとたまらなくなり、ぼろぼろのシビックに積んだ。稲村にさしかかると、なんと、何年に一度というグーフィー、5-6が割れていた。
3年のブランク、乗れるわけがなかった。緊張で震え、ウエットに脚が通らなかった。ずたぼろに巻かれたが、2、3発乗った。涙があふれて止まらなかった。おれを呼んでくれているのだと思った。原田は海に還った。

広島時代、原田は、波乗りと生活の両立を望む若いサーファーたちを、自分の店で雇ったり、サーフボードメーカーに紹介したりした。彼らも30代になり、重い現実を抱え、稼げる仕事を必要としていた。原田は彼らを雇い技術を教えた。仕事は順調だったが、不満があった。外装、設備、サッシ、水道、電気……建築現場には多数の工程が入る。他の工程が遅れたり押したりすると、原田たちは現場で手待ちになって効率が悪いのだ。しびれを切らし、言った。
「サッシ持ってきてくれ、おれたちで入れるから」
雇ったサーファー職人たちが腕を上げたこともあり、そのようにひとつひとつ職能を増やしてゆき、ある日気づく。なんだ、おれたちで、家一軒建てられるじゃん。仕事をグロスで請けるようになった。元請けにとっても都合が良かった。現場監理監督の手間やコストが減るからだ。
15年前のこと、かつてリフォームした戸塚のお客さんに相談を持ちかけられた。新築しようと思うのだが、相談に乗ってくれないか。
三角地で、コストも厳しく、4人家族。難しい仕事だったが、面白かった。
それが建築家としての初仕事だった。好評だった。住宅の設計依頼が増えた。
そんなある日、超一流の大工に育った社員のひとりに言われた。
「社長、いつかはおれたちが住みたいような、リゾート的というか、そう、サーファーズハウスをやりたいね」
原田自身、その欲求を感じていた。自分自身のサーファーズハウスが欲しかった。七里の海沿いに住んでいた。市街化が進んで便利だが、車も人も多く、心地よくはなかった。
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原田はオートキャンプによるサーフトリップを続けていた。先述したが、今も、海で遊んで森で眠るスタイルだ。
──そんな「家」で暮らせないものか。

2003-2006          
鎌倉山、500坪の「山林」との出会い
海で遊び森で眠る、ひとつの理想の
サーファーズハウスを実現

鎌倉山に、500坪の土地が売りに出ていると聞いて見にいった。
鎌倉山、それもてっぺんで、稲村や七里を望む南斜面となれば鎌倉でも超一等地である。それが500坪もまとまっているとはそう無い出物であるが、現地を見て納得した。森の、急斜面なのだ。一部は壁といっていい。
普通の人ならまず、否、普通の建築家なら住宅の敷地対象とは考えない。
地目は山林だが市街化区域なので家を建てることはできる。それにしても。
しかし原田は迷わず購入に踏み切った。
それから3ケ月、道も無く、自然植生の木々に野生のヒラタケやキクラゲがつき、ハクビシンが棲む森の急斜面を踏査し、造成や伐採を最小にするプランを固めたうえで、上屋の設計に取りかかった。
原田はこれを、自邸兼自分の会社のプロモーションハウスにする予定だった。しかし行き詰まってしまった。何十と試行錯誤するのだが、プランが収れんしてゆかないのだ。
はたと気づいた。
白壁にしてスパニッシュ風の瓦にしたほうがウケがいいのでは、などと考えるのはプロモーションを意識しているからだ。ヤメだ、徹頭徹尾おれが好きな家を建てよう。そう割り切ってからは早かった。
「森の中にログハウスじゃつまらないんですね、ではなく、大自然のなかにぽつんとジュラルミンのキャンピングカーが停まっている。おっ、いいなあと」
完成したこの家の、たとえば北面の壁は、ガルバ鋼板の生地(無塗装)である。北面ゆえのカビ対策でもあるのだが、敷地の原生樹木や、自然石材と、なるほどミスマッチではない。
この家の詳細については書ききれない。写真とキャプションを参照されたい。
主題を言うなら、森の斜面ゆえの、上下左右、樹木に抱かれたプライベート感。正面に広がる、空と海の空間感であろう。
「この家で、3回目の夏を迎えます。造成時は、土を削り、伐らねばならない樹は伐って、一時は殺伐として胸が痛みました。それから3年が過ぎ、ここの自然がようやく、この家を許し、いだいてくれるようになったのではと、そういうふうに感じています」
…………。

川崎の自動車工場で働いたころからすれば、この家はサクセスストーリーの結果である。
原田氏は波乗りによって全てを失い、そして全てを得た。