AGE 35-45 XXX RATED WINDSURFERS
いいトシこいて、トップでピークで成長途上
ウインドサーフィンは、パワー&アクティブスポーツなので、若者の天下で
あるはずなのだが、しかし、ロビー、ビヨン、アントワンら、スーパー兄ィたちが
幅をきかせている。世代でいえば35から45歳。驚くべきは、かれらは、現在が
ピークで、それを維持するにとどまらず、いまも成長し続けているのである。
なぜそんなことが可能なのか?
かれらの、個人的資質ももちろんだが、本質的には、ウインドサーフィンという
スポーツのユニークさによるのではないか?
このユニークさを解き明かすことは、なにか巨大な成果につながりはしないか?
「解」にたどりつけるかどうかは分からないが、とりあえず連載を始めよう。第一回は、
ニッポンの、男汁たらたらスーパー兄ィ、浅野則夫(37)、新城克志(39)、石原智央(40)。
JAPANISE TOP WINDSURFER
日本一のスラローマー、ではなく、日本一の
ウインドサーファー。なぜかれはいまも、
トップでピークで成長途上なのか?
浅野則夫(37)
■1971年3月21日、神戸生まれ。ウインドサーフィンのプロショップを営む父親の勧めで、13歳のときウインドサーフィンを始め、没頭。高校進学ではなくウインドサーフィンを選ぶ。ほどなく、富津のジャパンサーキット予選で、当時日本のトップだった牧野秀紀を抜く。
「ぼくはまだ子どもで、牧野さんは雲の上の存在だった。でもその出来事によって初めて、自分も日本のトップになりえる可能性があると知り、それは、すごく新鮮な驚きでもあった」
17歳のときプロ宣言。以降、岩橋厚、牧野秀紀、飯島夏樹、城和紀之とライバルにも恵まれ、常にトップランクを維持。PBA(当時)ワールドカップのスラロームでもシングル入りするなど活躍。
現在37歳だが、スラロームにおいては、2位以下との差をさらに広げ、08年12月の全日本では、V11時のビヨンDを彷彿させるブッチ切り。ウェイブにおいても年間王者を──かねてからの目標、スラロームとウェイブの2冠を──うかがう位置につけていたが、惜しくも2位に終わった。
日本一のスラローマー、ではなく、日本一の
ウインドサーファー。なぜかれはいまも、
トップでピークで成長途上なのか?
浅野則夫(37)
■1971年3月21日、神戸生まれ。ウインドサーフィンのプロショップを営む父親の勧めで、13歳のときウインドサーフィンを始め、没頭。高校進学ではなくウインドサーフィンを選ぶ。ほどなく、富津のジャパンサーキット予選で、当時日本のトップだった牧野秀紀を抜く。
「ぼくはまだ子どもで、牧野さんは雲の上の存在だった。でもその出来事によって初めて、自分も日本のトップになりえる可能性があると知り、それは、すごく新鮮な驚きでもあった」
17歳のときプロ宣言。以降、岩橋厚、牧野秀紀、飯島夏樹、城和紀之とライバルにも恵まれ、常にトップランクを維持。PBA(当時)ワールドカップのスラロームでもシングル入りするなど活躍。
現在37歳だが、スラロームにおいては、2位以下との差をさらに広げ、08年12月の全日本では、V11時のビヨンDを彷彿させるブッチ切り。ウェイブにおいても年間王者を──かねてからの目標、スラロームとウェイブの2冠を──うかがう位置につけていたが、惜しくも2位に終わった。
NORIO 勝つ。こんな楽しいこと、止められるわけがない ■「30過ぎたら引退する。業界には残らない、まっさらの人生を歩もう」 と、思っていた。 無理もない、13歳でウインドサーフィンを始め、競争や業界や自分に追われ、戦い続けてきたのだ。でも、30を過ぎても、続けている自分がいた。 ?、 要するに、やめるに足る理由がなかったのだ。 困難がなかったわけではなかった。 奄美の、危険なシャローリーフでひどく巻かれ、それがトラウマになって、波が大きくなると怖くて、出ることすらできなくなったこともある。 20代の後半には、真剣に引退を考えた。 この時期、勝てなかった。 「実力で劣っていると感じていたら、とっくにやめてた」 スランプは明らかに、道具のコーディネーションの問題だった。 それまでのキャリアによって、ウインドサーフィンに関することは、くっきり「見えた」 2005年にインタビューしたとき、かれはこう答えた。 「ウインドサーフィンしたいと思わなかったら、無理して海に出ない。平気で1ヶ月とか、3ヶ月とか出ないこともある。休むといつか、ウインドサーフィンしたくなる。モチベーションが戻ってくる」 |
浅野はかつて、自分のその後25年を決定した経験をこう語っている。 「13歳でウインドサーフィンを始め、楽しくて仕方なく、毎日夢中で乗っていたので、体の成長とともにどんどん上達していった。1年経つと、明らかにセイルサイズが大きくなり、セイリングスピードも速くなっていた。背丈が伸びるのは自然で自分では気づかないように、それは自然なことだったが、いま思うと、すごい勢いで上達していた」 「富津のジャパンサーキット予選で、バーレーのレースボードに乗って、当時日本のトップだった牧野秀紀プロを抜いたことがある。ぼくはまだ子どもで、牧野さんは雲の上の存在だった。でもその出来事によって初めて、自分も日本のトップになりえる可能性があると知り、それは、すごく新鮮な驚きでもあった。ウインドサーフィンは、自分と道具のマネージメントいかんによって、すごい可能性を与えられるスポーツだと知ったことが」 そして現在、かれはこういうのだ。 「まるでウインドサーフィンを始めたころのようだ。(モチベーションを維持するために休むどころか)毎日海に出たくてしようがない」 「ピークを維持してるのではない、ウインドを始めた頃のように、明らかに上達している」 引退を、つねに頭のどこかで意識していたが、こう続けるのだ。 「僕はまだピークに達していない、これからだと思う。スラローム、ウェイブ含め、今後10年間、トップを守りたい」 MAUI SAIL に換え、そのディストリビューターも始めた。 |
あと10年トップを維持すると、浅野は腰を据えた。なぜ、この2、3年でそのように変化したのか? 「ウインドサーフィンは、上達しないと楽しくない。逆に、明らかに上達していると分かって、結果も伴うと、これほど楽しいものはないんですよ」 12月の全日本も例によって優勝したが、2位以下との差は過去最高だった。 浅野則夫は、日本一のスラローマー、ではなく、日本一のウインドサーファーである。オーバーオールライディング能力は無論だが、感じるのは、ウインドサーフィンに対する、その明晰さだ。 かれは「自分が違って伝えられるのがイヤ」 だから、傲りもしないし謙遜もしない。 「日本人で、僕ほど、ウインドサーフィンが分かっている人はいないと思いますよ」という。 上達を実感して、それは主観的であいまいなものではなく、すべてをコントロール下に置き、自らの成長を、他者を観察するように、客観視できる。そりゃあ楽しいだろう。 その浅野にしても、希れにしか得られない境地なのだが、「すべてが、とてつもなく、しっくりしている」ことがあるという。 道具、チューニング、自分、風、海面、すべてが同調して……それはジョイント位置が10ミリ、ダウンが5ミリずれただけで壊れる微妙なものであるらしい。 PBAWCの、世界一タフといわれた、フュータベンチュラのスラロームで8位入賞したことがある。 いまなら? と聞いた。 「1回戦は突破できても、2回戦は危ない、それくらいのレベルじゃないですかね。でも、その、しっくりした感覚を維持できれば、挑戦ではなく、勝ちにいけると思う」 |
JAPANISE TOP WAVERIDER サイズが上がったときの、 ウェイブライディングはワールドクラス。 なぜかれはいまも、トップでピークで成長途上なのか? 新城克志 ■1969年1月23日、沖縄・久米島生まれ。16歳でウインドサーフィンを始め、18歳のとき御前崎移住。無名、アマチュアながら、JAS CUP でいきなり3位入賞を果たすなど、頭角を顕す。 ほどなくマウイに長期滞在するようになり、ホキーパのWCで優勝することを目標に据える。 目標達成はまだだが、WCを含む各国の大会で好成績を残し、00年にはポルトガルで開催された IFCA 世界選手権で優勝、04年にはNWA WAVE の年間王者に。 "HO'OKIPA REGULAR" と認められた数少ない日本人のひとりで、ことにサイズが上がったときのウェイブライディングはワールドクラス。 ウインドに留まらず、JAWS でのトーインや、カイト、ロングボードサーフィン、スタンドアップパドルボードも国際大会で上位入賞するレベル、日本一のウォーターマンでもある。 |
KATSUSHI ひとり「HO'OKIPA で優勝」という目標を いまだ捨てない。メンタルもワールドクラス ■かつてホリエモンが、いまならTBS を買収できる、絶好のチャンスだ、と言ったような話しが、現在、日本のウェイブ界にもあって、それは ダブルフォワードをメイクすれば──端的に言えばたったそれだけのことで──NWA の大会で優勝できる、というものだ。 なのに、いまだ一人も、ダブルフォワードを、ヒート中に武器として使える選手はいない。 ダブルフォワードは、恐怖感は強いものの、技術的にはべらぼうに難しいものではない、にもかかわらず。 現在の日本のウインドサーフィンはドメスティックで、技術レベルは残念ながら、世界に大きく遅れをとっている。 なかでも差が大きいのは、レースではなく、フリースタイルでもなく、ウェイブだ。 「世界」では、ダブルフォワードはむろん、トリプル、ダブルといっても "PUSH TO BACK" のダブルループをメイクしようか、という勢いなのである。ウェイブライディングにおいてはさらに……。 だからことに、ローカルや各国の才能が集まり、スペシャリストたちが覇を競うマウイのホキーパ、そこで開催されるWC で優勝する──レディスのMOTOKOはそれを成したが──というのが、日本男児にとってもっとも遠い、もっといえば現実性のない目標になる。 もっとも、ホキーパでのWC そのものが、06年を最後に無くなってしまった。 |
80年代の初めから、ホキーパで春と秋に開催されるWC を目ざし、多くの日本のウェイバーがマウイに長期滞在し、参戦した。まともに勝負ができ、ファーストヒート、セカンドヒートを突破する者はごく一部だったが。 ホキーパでのコンテストが無くなり、業界の状態など、多分に無理もないのだが、日本国内で活躍できればいいという空気が支配的なのは、やはり寂しい。 ところが、そう、新城克志、筆者もこの取材で知ったのだが、ホキーパで優勝することを、まだ諦めていなかった。 ウインドサーフィンを始めてほどなく、その目標を設定し、ほぼ2年間、マウイに滞在した。その後も毎年長期滞在を重ね、大会がなくなったときはさすがにがっくりとしたが、現在もマウイに拠点を持ち、道具を置き、ここ2、3年と同様、来年も1−4月の間、ホキーパでトレーニングする予定だ。 現在39歳だが、パフォーマンスレベルは上がっている。それは意外に、ウインドではなく、ロングボードサーフィンやスタンドアップパドルボードによってだった。 まず、それらによってウインドサーフィンだけをやってるだけでは見えない波が見え、波に乗るということが深く理解できるようになる。 次に、ウインドサーフィンでは使わない筋肉が鍛えられる。スタンドアップの板は11'、12'と大きく、バランス、操作はシビアかつタフ、パドルを扱うこともあって、足腰、体幹、ことに足底筋が鍛えられる。 ウインドの板に乗り換えたとき、小さく感じ(じっさいずっと小さいのだが)、足底筋の強化が、思いがけないほどボードコントロールに効く。 さらにいえば、風のないときにトレーニングするので、ウインドサーフィンのための時間を奪わず効率的にトレーニング配分できる。 レアード・ハミルトンが好きだという。 「レアードのように、新しいことに挑戦する姿勢を失わない限り、自分のパフォーマンスレベルも 上がり続けると思う」 |
JAPANISE TOP PROFESSIONAL ぶれない信念、結果志向、勝率、 日本一の、プロフェッショナル。なぜかれは いまも、トップでピークで成長途上なのか? 石原智央 ■1968年2月15日、名古屋生まれ。 幼いころから、スポーツで身を立てると決めていた。三好高校体育科のラグビー部でナンバーエイトを務め、愛知県体で優勝、国体出場。そのラグビーでアイシン精機に誘われ入社。東海リーグ進出を目指すも、リクリエーショナル派が主流であることに失望、退社。「いまからでも間に合うスポーツは」とウインドサーフィンを選び、経験も金もなく、ラグビーで鍛えた足腰しかなかったが、87年、御前崎に移住。 80年代のウインドサーフィンブームの恩恵を受けるには遅れてきた世代で、個人的にもそう脚光を浴びることはないまま90年代後半に至り、ウェイブの大会そのものが無くなってしまった。 が、ここからが真骨頂。 97年、松井重樹らとスポンサー回りから始め、ウェイブコンテスト"コールドブリーズカップ"をセルフプロデュース。99年にはNWA設立、自ら99−02・4年連続年間ウェイブ王者となり、尊敬を込めて「番長」と呼ばれる。 その後も、パフォーマンスはもとより、ON'S 創業、協会統一など、「番長」ますます活躍中。 |
TOMOWO 失ったが、「自分の扱い方に長け」収支はプラス ■現在、「勝つ」ために、TAKA を練習中、かなり完成度が上がってきたという。まだ完着したことはないが、ダブルフォワードにもトライしている。 NWA WAVE、08シーズンは年間ランキング4位で終えたが、TAKAやダブルを完成させれば、来季、07シーズンに続き、自身6度目となるウェイブタイトルを獲る、強力な武器になるだろう。 今年(08年)、40歳になった。 パフォーマンスレベルは、現在も上がっているという。収支はプラスということである。若さ、という、時間とか、すぐに回復するカラダなどを失って、それ以上の何を得たのだろう? 「集中力、自分が分かるようになったこと、合理的な行動」という。 5年前にインタビューしたとき、 「悩むほど頭が良くなかった」と笑っていたが、かれの話しを聞いていると、そういう収穫をもたらしたのは、かれの、迷いがない、シンプルな考え方ではないかと思う。 ただ「勝つ」ことだけを考える。 19歳で御前崎に移住したとき、金はもちろん、ウインドサーフィンの経験すらほとんどなかった。 プロになるには勝つしかなかった。 勝てるだろうかとは考えなかった。 勝たないとスポンサーがつかず、夜に働かねばならず、練習の質が落ち、そういうバッドスパイラルにはまると目標はついえる。 見せる、とか、スタイルとかはどうでもいい。 とにかく失敗せず、安定し、ポイントを稼げるライディングを目指した。 もともと努力家である。 |
とにかく長時間海に出て、がむしゃらに練習した。 ところが、20代の石原は、同じ87年御前崎移住組の、新城克志や東宮英樹のようには脚光を浴びなかった。 景気が悪くなり、ウェイブの大会が無くなり、自ら大会を開催し、NWAを創設し──結婚や、子供も生まれもして──忙しくなり、海に出る時間が制限されるようになってから、かれは優勝したり、4年連続でウェイブ王者になったりしたのだ。 短時間で成果を上げねばならないから、その日、なにを練習すべきかを考え、漫然と乗らなくなり、計画的に休息を取るようになった。 吹いていても、カラダに聞いて、成果が上がらないと思ったら、無理に出ることをやめた。だから罪悪感も感じず、精神衛生も改善した。 練習だけではなく、本番中のセルフコントロールも、自分に最適なそれを発見した。 ヒート前は、静かに集中をはかるのではなく、むしろ周囲に軽口を叩いて開放する。 ヒート中、失敗したり、想定外のことが起こったときは、ゆっくりと、何度か深呼吸する。 健康法や自己開発の本などで、深呼吸の効果が喧伝されているが、石原は自身の経験からそこに辿り着いた。 要するに、自分の扱い方に長けている、ということであろう。 ひとつ「勝つために」というシンプルな考えが行動を律し、それは歳を追うごとに洗練されている。 だから、40歳を越えたいまもパフォーマンスアップしているのであろう。 「番長」はウインドサーフィンの社会性向上や普及に熱心で、行政に働きかけ、学校教育の一環として、小学生にウインドサーフィンを教えたり、現在は、ばらばらで、資金力や社会的発言力がない各協会の統一に取り組んでいる。 最近、そちらの使命感が高まってきて、選手を続けるのは、あと3、4年かな、と思うようになった。引退しても、もちろんウインドサーフィンは続ける。 「60歳でプレーニングフォワードやりますよ、そういう自分をキープしたい」 |