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gare_03 のコピー.jpgfoto by TAKI

乳と蜜から離れた地

■ 女房や子どもにこころを残しながら、しかし離れ、草原に住み、その距離において、身勝手に、しかし優しく生きた男の、はなしをしよう。
ぽくはその男に会ったことはない。
ある時期、その男の妻に、彼のことを、幾度も聞かされただけである。
それだけだけれども、彼は、ぼくの友だちみたいな気がする。
彼の妻はぽくに、顔かたちや背丈についてはほとんど語らなかった。
でも偶然に どこかの街角で会ったら、ひょっとしたら彼だと分かるんじゃないかとさえ思う。
彼はアメリカ人で、彼の妻は日本人だった。
トシコという。トシコさんはアメりカの国籍を取って、オプフ島のカイルアの外れに住んでいた。
当時彼女は37歳で、キャスリーンという 9つの、幼くして気高く 美しい娘と、ジョナサンという 7つの、父の血がかった、はにかみがちな息子と一緒に、をの板張りの家で、数十柱の象牙にかこまれて暮らしていた。
アフリカにいる夫が送ってきたのだった。
そのうち、またコンテナが届くのよね、と、トシコさんはもの憂げに語るのだった。
象牙や、その彫刻や、人形や、トーテムポール…・・コンテナー杯ぷんの、夫の言いわけ。
ぽくはただの聞き役で──取材ではなかったので──細部ははっきりしないのだが、かれは商社か金融だかの国際的なビジネスマンで、ニジェール(だったと思う)に派遣され、トシコさんと二人の子どももついていった。
かれはもともと画家志望で、赴任する前から趣味で描いていたのだが、アフリカの草原や空気に触発され、週末だけ描きに行っていたのが、やがて野営するようになり、1ヶ月2ヶ月と連絡もせずに野営を続けるようになった。
4輪駆動車で、大陸の奥へ奥へとトレッキングして、もちろん人など住まない、ライオンやキリンや禿鷹たちの王国のどこかでひとりキャンプし、描き続けた。

かれはどちらかといえば学究肌の、肉体的には貧弱な男で、アメリカにいたころもキャンプなんかしたことがなかったので、トシコさんは夫が留守をしているあいだじゅう、迷子になってないか、ライオンに食われてないか、伝染病にやられてやしないか心配しなければならなかった。
携帯電話などなかったが、 1980年のことだから、 ときどき連絡するくらいのことはできるだろう。
トシコさんはそう言って夫を責めたが、かれは分かった分かったというばかりで、言うことを聞かなかった。
草原に出るとかれは、魂を奪われて しまうのだった。
トシコさんは絵には関心がなく、夫の絵を一葉も持ってなかったので、かれがどんな絵を描いているのかは分からなかった。
だから、かれの話を聞くときはいつも、ぼくは勝手にアンリ・ルソーの「眠れるジプシー女」をイメージした。
rousseau_bohemienne00.jpgアンリ・ルソー "眠れるジプシー女"かれの絵はアフリカ在住のヨーロッパ人にぽつりぽつりと売れ始め、やがて人気を博し、専業の画家になり、かなりの財を得た。
が、81年9月、中央アフリカのクーデターのあおりを受け、極度の政情不安に陥り、絵を売って得た金は国外では紙くずになってしまった。
ニジェールにいるのは危険で、かれはトシコさんにありったけのドルを渡し、彼女とニ人の子供をアメリカに帰した。 
「この金で、カイルアに家を買って、待っていてくれ、おれもそのうち、きっと帰るから」……

かれは帰らず、 2年が過ぎようと Lていた。
絵を売っては象牙など現地の工芸品を買い、 カイルアの妻子に送った。でも象牙は売れそうになかった。野生動物の保護がヒステリックに叫ばれ始めた頃で、第2便のコンテナは、通関できるかどうかさえ、分からなかった。

かれはたぶん優しい男だった。トシコさんはいつももの憂げに、でもどこか楽しそうに、かれのことを語っていた。
7年前の話だ。かれは妻子のもとに、帰ったろうか。