foto by Iwana Akizuki
完璧な体験を得ることは、 釣りをすると、そのことがよく分かる。 わしは釣りのベテランではない。 子供のころの野池釣りを別にすればまだ2度の経験しかない。だからこそそのことがよく分かるのだ。 渓流だ。 8月の初め、北アルプスの南、乗鞍岳に夏スノーポーデイングの撮影に行き、麓の温泉近くでキャンプした。 瀬音がするので深い薮を分けて沢に下りた。 堰堤と堰堤の聞の、ひとまたぎの幅しかない沢で、魚がいるかどうかも分からなかった。 渓流釣り師の友が耳元でささやく。 イワナは用心深くて、人影や声に気づくと岩陰に隠れて3時間は釣れなくなるんだよ。 仕掛けを作ってくれ、餌のブドウムシをつけてくれ、中腰で、静かにあの淵に近づき、淵のうえの枝にからめないように、餌をそっと落とし、糸を張ったまま、流れと同じ速さで流せ、と教えてくれる。 |
背後のブッシュに隠れている友を振り返る、かれはうなずき、声をださず、そこ、と目と指でポイントをしめす。 淵、といっても幅はひとひろしかない。 そっと餌を落とす、目印!?、振り返る、「合わせろ!」とジェスチャー、生命! 逸走、感電、 そいつが奔るのに慌てて竿を立てると渓を覆う樹の枝に穂先があたり絡みそうになる、左右も枝、友人を振り返る、竿を仕舞えとジェスチャー、540cmの竿に90cmの仕掛けの「提灯釣り」なので、取り込むためには竿を一節づつ仕舞わねばならないのだがそんなことは知らない、いま考えるとイワナはすでに鈎掛かりしているわけだから声をだしてもいいはずなのに大慌てでジェスチャー、 朱? 金? そいつは水面で一滴の光として弾け、弾けた水玉の後光、振り返る、友はうんうんうんと激しく頷く、気づくとその命はわしの足元でエラを開いたり閉じたりしている。 沢に下り、アタリがあるまでわしの頭のなかはいろいろな悪魔が渦巻いていた、うまくゆかない女や仕事のこと、老いつつある両親のこと、いつもの自己嫌悪……。 その瞬間、全てを忘れた。 9寸のイワナだった。 その魚がイワナであることさえ知らなかった。 魚体は冷たく、筋肉質で、蛇のようにのた打ち、沢に取り落とすのではないかと手が震えた。 銀とその沢の底石色の迷彩に嘘のような朱点をちりばめたその魚体に魂を奪われ無心に凝視した。 |
わしは何も知らなかった。 人が余り入ったことがないような沢を歩いたのも初めてだった。岩や幹に、何年もかかってむしたような苔の感触も初めてだった。 沢の水は、真夏でも冷たいことも知らなかった。 渓流釣り師は、野生のイワナだ、と言った。 わしは、正真正銘、生涯の第一投で、野生の、26.5cm のイワナを上げてしまった。 あとで知ったのだが、周辺は有名な渓流釣り場でポイントがいくらでもあり、その、小堰堤が連続し、藪に埋もれ、内水面漁協の放流もない沢は、釣り人が入らない穴場となって、野生を育んでいたのだ。 さらに、水温、水量、時合い、餌の種類とか、いろいろな偶然が重なり、わしは稀な僥倖を得たのだろう。 しかしわしは同時に、不幸を抱えこんでしまった。 これ以上の沢で、これ以上の魚を上げないことには、これ以上の「体験」は得られないのだ。 イワナという魚も知ってしまった。 2尾目のイワナは、「あ、イワナか」と、あんな赤子のような無心さをもって魚体を眺めることもないだろう。 釈迦のことばを借りれば「知は災い」なのだ。 イワナを裂く。内臓の膜が、腹からなかなか剥がれなかった。塩をして焚き火で炙って食った。生まれて初めて食うイワナだった。 あるものを得ると、あるものを失う。 釣りすると、そのことがよく分かる。 が、釣りにはまだ救いがある。 夢があるのだ。浮かせるまでは、その魚がなにものであるか分からないから。 |