……………… うかぶヒト "HUMANATURE" 1998 ………………

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うかぶヒト

■君からすればおれなんて、スケベでダサい、
ただのオヤジなんだろうけど……、
沈黙に耐えきれずにそう口を開くと、あらそんな
ことないわよ、と“あゆみちゃん”は唇のはしっこで
微笑んでくれ、おれはひどく救われてそれだけでじん
としてしまい、女の子のまえではカッコつけないほう
がいいと30を過ぎてやっと気づいたおれは、自分を
褒めてやりたい気分だった。
──歌舞伎町のある店のポラロイド写真に恋をして、
4回めの指名の終わりに、意を決して、「出勤前に、
軽いものでも食べない」と“あゆみちゃん”にデート
の申し込みをし、おれにとっては、それはこうして
書くほど簡単なことじゃなかったのだけれど、意外
にもいいわよと返事をもらって舞いあがり、
"ぴあグルメ”で、18時から開いている、しゃれた
(と思われる)店のあたりをつけておいたのだが、
彼女がおなかは空いていないのというので、優柔
不断だと思われないよう目についたショットバーに
迷わず入ったのだった。
狭い階段を登ったそこは細長くてカウンター席しか
なく、目の前の窓の向こうには狭い路地を隔てて
安っぽい仕上げのビルの壁が迫り、壁に空いた
小さな窓から、「お宝系」っていうんだっけ、有名
アイドルがむかし脱いだとか水着になったとか
みたいなグラビアが載った古い男性誌を売る店の
なかが覗け、会社帰りだろう、40がらみの、替え
ズボンつきで19,800円みたいな背広を着た男が雑誌
を物色していて、目のやり場は自然そこしかなく、
おれはあのおっさんよりはマシだと思ったが、
彼女はおれみたいだなと思っているに違いなく、
ビールの軽い酔いで状況を打開したかったのだが、
彼女がアイスティーを注文したので、ビールは飲んで
ない人には臭うからと思い直してしかたなくアイス
コーヒーを頼み、まだ明るいうちからショットバーに
入ってお茶を飲んでおり、なんというか「据わり」が
余計に悪くなっていたのだった。

……「にゅーとらる、っていうかなぁ」、
あらそんなことないわよ、の微笑みの余韻が消えない
うちに彼女はことばを継いでくれた。
「それがあたしのテーマなんだ」、
ニュートラル?

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「マイナスっていうか、N極っていうか、重いほうに
引き寄せられているのよ、
あたしは、いつも、ずーっとね」、
でもこんな言い方じゃわからないわよねみたいなかんじで──笑うと目が細くなりすぎることが唯一の欠点だとおれは思っているのだが──“あゆみちゃん”は無防備に苦笑するのだった。
「生理痛がひどいのよ」、
え?
「おなかのしたのほうにある重い石が骨盤と背骨のとりつけを干切るように伸ばすみたいなかんじでねえ……、おっぱいも張って」、骨盤、おっぱいも?、
“あゆみちゃん”のそれらの感触は知っているが、なぜだろう手が届かないようで切なくなる。
「8つのとき、あたし、棒温度計を持ってたの、あたしはいつもそれを持って、お風呂に入ってたんだよ」、
ぼう、温度計?
なぶられてるんだな、おれは。
そんなふうに話してくれる彼女の優しさと、だからこその劣等感を感じないではなかったが、それはラクで、心地が良かった。おれはただ頷いたり、顔をしかめてみせるだけでよく、彼女の瞳を自然に見つめていられるのだ。
……「お風呂に浸かって、お湯を沸かしながらかき混ぜて、差し込んだ温度計の赤いのがゆっくり昇るのを見ながら決心するのよ、今日は55度まで我慢するのよってね、でも無理なの、50度が限度で、50度を超えた瞬間に8つのあたしは自分を許して、湯船からがばっと立ち上がるのよ」、
……「貧血になるじゃない、くらくらして、墜ちてくとき、おとうさんって、べつにおかあさんでもいいんだけどさ、おとうさんってなに? って考えるの、え、おとうさんってなに?なに?って混乱して、これは倒れるな、やばいなと遠くで感じながら浴槽を出て、だんだん、いつものあたしに戻ってゆくの、
わかる? たとえばその時間がニュートラルなのよ」、
「あたしは奴隷なの」、
?、なぶられるのもラクじゃない、
「あたしは、あたしのカラダの奴隷なのよ、
……あたし、今年で26になるんだけど」、
21歳くらいだと思ってたよと、あわてて反応しようとしたがすぐに彼女はことばを継ぐ。「ちいさいころからずっと、カラダが爽快だっ
た記憶がないのよね、いまも疲れるとすぐ歯茎が腫れるし、ロ内炎ができるとなかなか治らないし、頭痛持ちだし、肩はすぐ外れるし、生理痛はひどいしね」、
「小学生のころ、遠足にゆくじゃない、あたしはすぐバスに酔っちゃって、すると歯茎も腫れるのよ……、遠足の興奮とか、だれかが転んで笑うとか、そういう感覚は共有できる
じゃない、友達と」、
「でも痛みだけは共有できないのよね、あたしはいつもあたしひとりであたしだけの吐き
気や痛みと向き合ってきたの、あたしそのものが痛みなの、ずっとね、いまでもね」、
……、
風呂で貧血すると痛みを忘れられるってこと?
「っていうか、カラダが消えるのよ」、
「あたしは意識だけになって、その意識は、カラダを意識していない意識で、それってどういうあたしなんだろう? って……」、
それってエッチじゃ無理なのか、とおれは言いそうになったが、そんなベタな反応を呑み込んでただ思慮深げにうなずくことができ、おれは自分を褒めてやりたい気分だった。
彼女はグッチのセカンドバッグを開けなにかを探す。逆光になった店のスポットライトに彼女の耳の産毛が光り、透き通った耳朶の静脈にみとれながら、"あゆみちゃん”はおれなんかの3倍くらい稼いでるんだろうなと、いつものように考えて切なくなった。
「ほら」、と輝くような笑顔で一葉の写真を見せる。たぶん彼女だろう、水面近くで、イルカと泳いでいる水中写其だった。友達が、防水の「写るんです」みたいなカメラで撮ったような粗末な画質だったが、水面から射した数条の太陽光が彼女とイルカを照らし、どの方向が重力軸か分からないような不思議な浮遊感があった。
「ニュートラルなのよ」、と彼女はいった。「中性浮力といってね、ウエイトとかBCジャケットの浮力をうまく加減すると、くらげみたいに、浮きもしなければ、沈みもしない、無重力になれるのよ」、
……その、カラダが消えるみたいな?
そうだけど、それだけじゃないのよ、みたいな表情をして少し考え、
「サカナって、絶えず動き回ってると思ってるかも知れないけどね、潜ってみれば分かるけど、動き回るのもいるけどほとんどはただ浮かんでるみたいなかんじなの。だからこっちもニュートラルにならないと同化できないのよ、いつまでも存在しちゃうっていうか」
彼女は続けた。
「でもイルカは」
動く。
「そう、動くの。でもね、あたりまえだけどイルカってヒトと泳ぎたがる動物ってわけじゃなくてね、これは北カリブ、ホンジュラスのバンドウイルカなんだけど、あとはバハマのマダライルカとか、遊んでくれるのはヒトに慣れている群れだけなの。だから、まずはそこまで行かなくちゃならないでしょ」
イルカの話しになると彼女は多弁になった。
「イルカってサカナじゃなくて哺乳類だからね、好奇心があるのよ、でもただぼーっと浮いているだけだと遊んでくれないの、U夕ーンしたり、宙返りして、おもしろそうなやつだと思わせないとね、わかる? だからニュートラルじゃないといけないのよ」、
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foto by Junji TakasagoLinkIcon

?、
「でないとほら、水の中でニュートラルに浮いてないと、イルカみたいに自在に動けないじゃない」、
「自閉症の子供がイルカと泳いで治ったとか、癒し効果が話題になったでしょ、イルカがなにかの超音波をだすからなんて説があるんだけど、あたしはそうは思わない、イルカじゃなくて、ぜんぶ本人の問題なのよ」、
「ポンベをしょって海に入るじゃない、始めのうちはいつもの腰痛とか、フィンのストラップが足首に当たるとか、レギュレーターの排気音とかが気になるんだけど、すこしづつ忘れて、ニュートラルになると、力ラダが消えるのよ、あ、きた、ってあたしは思って、そう思ってももう、力ラダが戻ってくることはないの」、
「あたしは意識だけの存在になって、体重は無くて、イル力と一緒に、泳ぐ、……っていうんじゃないな、泳ぐって意識してないものね、気づくと、移動してるのよ……」、
そういって彼女はしばらく写真に目を落とす。あ、もうこんな時間、行かなきゃ、と立ち上がる。下まで送ると、
「今日はありがと、楽しかったわ、えーと」、おれの名が思い出せないのだ、
「シモカワさんだ、じゃあ」、と笑って小さく手を振る、
それは店で使ってる偽名で、違うんだ、ほんとの名は、と喉まででたときには、彼女は小鳥が飛び去るようにくるりと踵を返しており、あっというまに雑踏のなかに消えた。
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TOKO付記: ■このショートショートは完全なフィクションで、わし自身は風俗には興味はない。友人にさそわれ、歌舞伎町のファッションヘルスに一度だけ入ったことがあるだけだ。そう、そのあと入ったキャバクラで、勘定のとき、短躯のハゲの全身くりからもんもんのちんぴらやくざがでてきたりして厭な夜だった……。
風俗のコはダイバーが多いんだってね、という担当編集者の雑談、ダイビングは広告の仕事でかかわっていたし、知己のあった高砂淳二氏に写真を借りて、とこのページをつくった。それからしばらくして、村上龍氏の短編を読むと、「ニュートラルなのよね」とかいう女性が書かれていた。
「しもた、こらぜったい真似したと思われてまうな」
わし自身、氏のファンで、この記事の文体も村上龍かぶれみたいだし。
…………あれ、このはなし、オチへんな。
しもた、こらぜったい言い訳や思われてまうな……。