88年新島、夏樹21歳。 飯島夏樹と、 初めて会ったときのことを覚えている。 88年初春の新島、マルイオニールのワールドカップだった。 本村の、ある居酒屋で、ビヨン・ダンカベックとアンダース・ブリンダルの対談をセッティングした。のれんをくぐると、発達した背筋を包んでぴんと張った、ニールの白いTシャツの、大きな背中があった。 夏樹だった。自分が目指すトッププロの対談を見学に来ていたのだ。 逆三角形の広背筋をつまみ、すごいね、と声をかけると、夏樹はぎょっとして振り返り、どーもですっ!、と快活に返した。 それは夏樹のプロデビュー戦だった。 プレッシャーは大きかったと思う。 その前年、夏樹は、国内全国レベルの大会への参戦経験もないまま、いきなり米国ゴージプロアマ・スラローム、アマクラスのファイナリストとなり、大器と騒がれていた。新島である程度の結果を出して、ゴージでの劇的デビューがフロックではないと証明せねばならなかった。 |
早くから新島入りしたがタフコンディションで道具を壊し、第一ヒートは微風用の板で出るしかなく、羽伏浦の強烈なビーチブレイクに巻かれて足首を捻挫し、夏樹のデビュー戦はあっけなく終わった。 怪我でリタイアしても、夏樹はなお張り詰めていた。あきらめざるを得ないのに、緊張を解くことができない様子で、すこし不憫に感じたほどだった。 その年の5月、カリビアンツアーを皮切りにPBAワールドツアーに参戦、9月にはタリファ(スペイン)、11月ジャパンサーキット優勝、翌89年4月サムタイムワールドカップに参戦、寛子さんと出会い、と夏樹の「物語り」は展開してゆく。 その日の新島からほぼ20年が過ぎる。 写真家・横山泰介氏のもとに「なみある? サーファーズ・アワード2007」招待状が届いた。 引き出しにしまい、なんとなくデスク回りを整理していると、引き出しの底に、コンタクトシート(写真セレクトのためモノクロフィルムのスリーブごと紙焼きしたもの)が見えた。 出してみると、飯島夏樹の写真だった。それも、88年、新島での。 「日本の大器」と聞かされ撮ったに違いなかったが、どこにも発表しなかったこともあって、夏樹を撮影したことじたい忘れていた。 20年振りの「邂逅」、 招待状を見ると、受賞者に、飯島夏樹の名があった……。 |
横山氏は当時から、サーフィンフォトグラフィーの第一人者であったが、ウインドはほとんど撮っていなかった。その新島取材には、筆者(TOKO)がとくに依頼して参加してもらった。その筆者も、氏が夏樹を撮っていたことは知らなかった。 偶然以上のなにかを感じた横山氏は、ポートレイト1点を焼き、アワードに出席される、寛子さんはじめご遺族に贈ろうと思った。 そのセレクトを、相談されたのだが、他のどの写真とも似ていない、いちばん夏樹らしくない写真を選ぼうと思った。意外なほうが、ご遺族も楽しめると思った。 この写真だ。 アゴに手を添え、スカしている。 夏樹は、ふつうはこんな顔はしない。 しかし、 と思われてきた。 じつはとても夏樹らしいのでは。 ことにあの日のかれを想うと。 張り詰めて、じぶんは何ものかであると信じようとし、ときに自信を無くし、強がり……。 夏樹は「愛」の人だったと思う。 博愛ではなく自己愛、それはナルシズムの対極にある、過剰な自己への期待、高すぎる設定ハードルゆえの、叱咤、わずかな自負、たくさんの失望に満ちた、厳しいものだった。 88年新島、夏樹21歳。 じぶんを、その将来を、信じようとし、 いきなりつまずいたじぶんを罵っていた。 |