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飯島夏樹は天に召された。 ■飯島夏樹は、天に召された。 ハワイ現地時間、2月28日23時50分だった。 ご覧になった方も多かろう。逝去後放送されたフジテレビ系のドキュメンタリーで、夫のいなくなったベッドに座り、寛子さんは言った。細部は違っているかもしれないけれど、こういうふうに。 ──亡くなる数日前から床ずれに苦しみ、さすってやるとラクになるようで、そうしてあげられることが嬉しかった。トイレにも立てなくなり、ベッドで排泄の世話をした。一晩に8度も起こされたけれど、そういう時間をともに過ごせて幸せだった……。 ふたりと多少の交際があった私は、一人でテレビを観ていたこともあって、このシーンでどばっと落涙してしまった。 しかし、続く寛子さんの言葉にはぴんとこなかった。 ──夏樹がいなくなって、見えないし、触れないけれど、いたときよりも、近くに(存在を)感じる。 そんなことがあるものだろうか? あるとすればどういうかんじなのだろうか? …………。 のちに私は、それが分かった。 飯島夏樹の第二作、「ガンに生かされて」(新潮社)を読んで。 かれはつまり、エネルギーを残して逝ったのだ。 エネルギー。 気、でも波動、でもいいのだが、手で触れるくらいリアルで、具体的な力を持つもの、という意味で、エネルギーという言葉がぴったりくる。 デビュー作の「天国で君に逢えたら」(同)は小説だが、「ガンに生かされて」はエッセイ集、死に瀕したかれのノンフィクションである。事実であるがゆえに、迫るものが強い。とはいえ、事実にも種類(あるいはレベル)がある。 キリスト教で言う懺悔とはまた違うような気がするが、 かれは「ガンに──」で、痛々しいくらい正直に自らのことを綴っている。 そうあろうと書いたのではなく、そう綴らねば耐えられなかったかのように。 これほど、なまなましい気持ちが詰まって、それがひしひし伝わってくる「言葉」に、筆者は出会ったことがない。 人の意識はタマネギに似ている。 普段の、会社での人付き合いなどは表皮のまま。 親しい人の前では一皮、恋をすると五皮くらい剥け、 死に瀕したり、(テレビで夏樹が言っていたけれど)本当の幸せに出会えたりすると、芯の際まで剥けるのではないか。そういうナマモノとしての気持ちは良かれ悪しかれ人の心を打ち、行動を左右する、具体的な力、エネルギーとなる。 夏樹がどれくらい裸になったのかは分からないが、その影響力は強く、かつ過去形ではなく現在進行形で力を持ち続けている。 作家としてのデビュー作「天国で──」は20万部を越え、2月のドキュメンタリーの視聴率は13.7%。 「ガンに──」の素稿となったウェブの連載エッセイは連日20-30万ページビュー。ドキュメンタリー放送直後には50万ページビューに達し、訃報が伝えられてからしばらくはアクセスが集中してブラウズ不能に陥った。 3月22日に発売された「ガンに──」の初版はじつに10万部である。これは新人作家としては異常な数字で、たとえば村上春樹でさえ初版は10万部に届かないという。 なぜ、このような「夏樹ブーム」とも言える現象がもたらされたのか。かれの行動や言葉にくもりがないからであろう。エネルギーは本来、くもりがなく、生々しく、透明なものだ。本人が亡くなり、見えなくなって、余計にくっきりすることもある。 筆者が夏樹に初めて会ったのは88年、新島で行われたマルイオニールで、以後ワールドツアーをカバーした数年間、かれをよく取材した。飯島夏樹はPBA(当時)ワールドカップのトップシード権を保持した、ただひとりの日本人だった。それも4年間に渡って。 引退と前後してグアムに渡ってから疎遠になり、ガンになったと噂で聞き、そして昨年の7月、10年振りに国立がんセンターに入院中のかれを見舞い、2時間ほど話して、本誌04年9月号にルポを書いた。それからはメールを数度やりとりし、かれに近い人に様子を聞くだけで、かれは逝ってしまった。 |
だから、その程度の接触でこう言うのはおこがましいかも知れないが、がん宣告、うつ病、余命宣告、執筆との出会い、そして死、に至る期間、夏樹は、自分の気持ちを一皮一皮剥き、ナマの自分──本当は自分は何を望んでいるのか──に、出会おうとする作業に、逃げずに取り組んできたように感じる。 そう感じることには理由がある。 夏樹はその生涯を通じて、いくつかの夢を実現した。 最初の夢は、一流のプロスポーツ選手になることだった。そのためにウインドサーフィンを「選び」夢を実現した。引退と前後して、グアム・ココス島にマリンスポーツセンターを興し、あっというまに軌道に載せた。数艇のプレジャーボートを手に入れ、クリスタルクリアなラグーンを、ウェイクボードしながら出勤した。ビーチフロントに700坪の邸宅を購入し、芝生の庭からパドルアウトして、アウトリーフで、夕焼けに染まる我が家を観ながらサーフィンした。かれは20代で、海とともにある経済的成功を手に入れた。 美しい、最愛の妻、4人の子供たちにも恵まれた。 「ガンに──」に出てくる話なのだが、グアムはしばしば強烈な台風に襲われる。そのときも、電気も水道も止まってしまった。と、当時8つだった長女の小夏ちゃんが見つけた家の裏山の小さな滝で、家族で素っ裸になり、月明かりのもと水浴びしたという。そんな、映画にするにしても美しすぎてわざとらしいような生活も手に入れた。 私がよく取材していた、選手としての最盛期、夏樹は自然体ではなかった。トッププロになる(である)ためにはかくあるべきと、自分を厳しく躾けている印象が強く、痛々しいくらいに真剣で、もうすこし肩のちからを抜けば、と思わないでもなかった。 その印象は本当だった。 それほど親しくもなく、10年振りに会った私に、夏樹は自分の「弱さ」をさらけだした。 幼い頃から心身症的傾向が強く、過敏性大腸炎や鼓腸(空気を呑んでしまい、げっぷで吐き出せない)で苦しんでいたこと。選手時代はトップアスリートぶっていたが、旅の辛さや成績や闘いのプレッシャーから、不眠症や対人恐怖症に陥っていたこと。グアムでの実業家時代も、経験も無いのに、小さくない金額を動かし、従業員の生活を預かり、有能で懐の深い経営者を演じることに、ストレスと、居心地の悪さを感じていたこと……。 傍目には、絵に描いたようなヒーローに見えたが、そうではなかった。ガンになって、死に瀕して──勝手な想像で言うのだが──誰に対しても素の自分を見てもらおうとした。 癌宣告を受けてから、夏樹は闘病記や、親しい人に手紙を書いていた。それは一皮づつ、裸になるための方法ではなかったか。しかし、前のルポに書いたが 「けれど、癌や死というリアリズムに対して、日記や手紙というリアリズムの文体で立ち向かうと、どんどん落ち込んで」 最後の望みであった生体肝移植の望みが絶たれもし、かれは重度のうつ病になる。 「陰気な暗い森の中をさまよい」、死に逃げたくなるような、最悪の時間を超え、どちらが先かは定かではないが、小説執筆と前後して、夏樹はうつから快復した。 「天国で君に逢えたら」の編集担当である新潮社の加藤大作氏によれば、夏樹は、「小説なら、登場人物たちに自分の思いを、ユーモアでくるんで代弁させることができるから、ガンや死に立ち向かえる」と、執筆を始めたらしい。 しかし、この出版を打診する相談が、夏樹の所属事務所から持ち込まれたとき、加藤氏は可能性を感じなかった。かつてトップのウインドサーファーだったとは言え、この世界では全くの無名。文学賞に応募したこともない全くの素人の習作。ふつうなら絶対に売れない。それが、昨年の5月、夏樹と初めて会い、なぜこの状況でこの人はこんなに前向きなのかと目を洗われ、 「飯島夏樹という人物を読者に伝えれば」小説も売れると確信する。結果は、皆さんご存じの通りである。 「天国で君に逢えたら」は3月20日現在、22刷20万部を突破している。 この小説、私たちウインドサーファーにとってはある意味、物足りない部分がある。と言うのは、あの飯島夏樹が書いたのに、ウインドサーフィンがあまり登場せず、どちらかといえばサーフィンとカイトが主役である点だ。夏樹は、親友である岩崎真氏にその言い訳をしていた。 「ウインドサーフィンは自分にとってあまりに生々しく、我が子を書いて親ばかに陥るような愚を避けるために、苦労してウインドを書くことを我慢した」 |
foto by KazTanabe → download to read 昨年8月、夏樹は、ターミナル期をハワイで暮らすべく家族で引っ越しすることを決めた。このときかれは加藤氏に相談を持ちかけている。 「ハワイで、命の続く限り、毎日、エッセイを書きたい」と。 すでに、単なる編集担当ではなかった加藤氏はその望みをなんとしても叶えてやりたいと奔走するが、新潮社には日刊の媒体がなかった。新聞社に依頼したが断わられた。無理もなかった。この時点で夏樹は医学的にいつ召されても不思議ではなかった。体調不良で連載が不定期になったり、連載を始めて1週間で逝去打ち切りとなれば新聞社も困るのだ。 ひとつ可能であったのは、新潮社のウェブサイトでの連載だった。でも、と加藤氏は言った。原稿料は発生しませんよ。 「ぜんぜん構わないよ」と、夏樹は答えた。 もちろん、原稿がまとまって、将来本にできればという希望はあった。しかしターミナルの夏樹にとっては、約束をすることも、それを強いることもできない。 ただ毎日、裸の自分を書いて、それが誰かの心に届けば良かった。 果たして、飯島夏樹は、余命宣告が言う最後の日を、188日越えて生き抜き、その間に149本のエッセイを残し、ウェブ上で連載、連日20-30万ヒットを記録、そして、その厳選された46本が、第二作「ガンに生かされて」として出版された。そこにある言葉の強さは、前述の通りである。 担当編集者である加藤氏は言った。 「この本は、ミリオン(百万部)を狙っている」 最後の日々を綴ったドキュメントの強さ、前作やテレビや他のメディアを通じて伝播された「エネルギー」を考えれば不可能な数字ではない、(ミリオンに)届くと思う、と。 夏樹は、「天国で君に逢えたら」の続編を数作残しており、出版の可能性を図るため、現在加藤氏がそれら原稿を整理している。 本には収録されていないが、ウェブのエッセイに、ロビー・ナッシュ──「天君」の登場人物でもある──が、もし映画化されるなら是非協力させてくれ、と言ってくれたという一編がある。おれはクイックシルバーのディレクターでもあるから、ケリー・スレーターもロキシーガールも任せとけ、と。 飯島夏樹は逝ったが、「飯島夏樹プロジェクト」はこれからが本番である。それはもちろんお金にもなる。ミリオンセラーや映画化が現実になれば、現在3つの多蒔(たまき)ちゃんが高校を卒業するまで、寛子さんと、多蒔ちゃんを含む4人の子供たちは、経済的にそう苦労することはないだろう。 夏樹パパは、家族の将来のため、自らの死亡保険金や預金残高について気に病んでいたが、小説の印税については、出版されれば多少、程度にしか考えていなかった。「南の島の執筆療法」などとうそぶき、自分の、最後の夢を叶えるべく、最後まで、やりたいことをやって逝ったようにも見える。しかし、移住決断によって、ハワイでの生活環境を家族に与えたことも含め、余命宣告から逝去に至るわずか8ヶ月の間に、遺族の将来的な経済的問題にも、きっちりおとしまえをつけているのである。 「まるで台風みたいだった」と寛子さんは言う。 「そして彼らしく、あわてて逝っちゃった」 ガスの元栓は締めたか、戸締まりは大丈夫か、などと言い残したふうに。 3月4日、ホノルルのマキキ聖城教会で行われた葬儀に悲壮感はなかった。 それは、「死は終わりではない。天国で逢おう」という、夏樹自身の、生涯最後の夢とリンクしたメッセージが、誰の心にも染みいっていたからである。 夏樹の遺骨はダイアモンドヘッドのアウトサイドに蒔かれた。 夏樹は海に還った。 「世界のどこにいても、海に行けば夏樹に逢える」と、寛子さんは言った。 |