……………… 飯島夏樹 闘病期ルポ 2004 ………………

HERO NATSUKI        

生き続けるための遺言



かつて、かれはヒーローだった。
88年から95年にかけ、「世界」とがっぷり
四つに組み、うち4年間はPBAワールドカップの
トップシード権を保持した。夏樹以前、夏樹以後、
この国にそういう男はあらわれていない。

ヒーローは「へっぽこな自分を無理やり躾け」
ヒーローであり続けようとした。無理は、肝臓に
ソフトボール大の腫瘍を作ることで帳尻を合わせ、
自らを斃した。死ぬ方がましと思える痛みと鬱。
2年間の闘病の結果が、余命半年の宣告だった。
かれは伏せず、むしろ跳ね起きた。突如、
もうれつな勢いで、風、生と死をテーマとした
小説を書き始め、それは出版された。
残してゆく者たちに、遺すために。

『天国で君に逢えたら』
帯はあの中田英寿が書いた。
「こみ上げる想いを抑えることができなかった」と。

このインタビューは、
「ハイウインドの読者に最後の挨拶をしたい」
という飯島夏樹氏自身の希望により実現した。
かれの処女小説を「奇跡のようなラブストーリー」と
評した人がいたが、取材者には、死を目前にした
かれの行動力、精神的境地こそ、奇跡と思えた。
かれはヒーローだった。と書いたが、間違いだ。
いまのかれこそ、ヒーローだ。
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「久しぶりです」と、かけてくれた
声の強さと笑顔の明るさにまず驚いた。
夏樹は、整理された話し方で、病気の
経過について、痛々しいほどの
正直さで、自身について語り始めた。

■ 重い病人を見舞い、病院を出ると、ほっとするものだ。
快方に向かっているのならいいが、医学的に回復の見込みがないとされる場合はなおさら。
その種の病人は一般に、負のエネルギーを帯びているので、見舞う側も疲れてしまうのだ。
想像してほしい。
かれは末期の肝癌で、先日、主治医から、この冬は越せまいとの余命宣告を受けた。かれはまだ37歳で、子供が4人いて、長女が10歳、三男はまだ2つなのだ。

かれが癌に冒されたことは知っていた。
心配で、夫人に病状を尋ねるメールを送ったりしていたが、見舞いには行かなかった。癌患者がしばしばそうであるように、そうされることを望んでいないと思われたから。
6月、寛子夫人からメールが届いた。
──二度目の外科手術の結果、主人が、肝臓の血管肉腫という、10万人にひとりといない悪性度の高い癌であることがわかり、あと半年は保たないであろうとの宣告を受けた。それと前後し、海、風、生と死をテーマとした小説を(突然に)書き出し、新潮社より出版される運びとなった。
本人が、ハイウインドの読者に最後の挨拶をしたいと言っている。その本のことも話せればとも………。

7月3日、築地の国立がんセンター中央病院に、初めてかれを見舞った。
しかし、見舞い、は取材となった。
つまり、かれが「負」ではなかったからだ。
痩せてはいたが、「久しぶりです」と、かけてくれた声の強さと笑顔の明るさにまず驚いた。
かれは整理された話し方で病気の経過について説明し、痛々しいくらいの正直さで自らを、小説を語り、死生観を語り、そしてスケジュール帳を見せ、まるで夏休みの計画を立てる小学生のように、残された時間にやろうと思っていることについて語った。

病院を出たとき、私は疲れていなかった。元気をもらったといえばオーバーになる。しかし私は少なくとも、背筋をしゃんと伸ばされたような心持ちでいた。
かれのような人間には嫉妬すべきだが、そういう相対的な心持ちではなかった。
飯島夏樹という。
飯島夏樹はかつて、日本の、全ウインドサーファーにとってのヒーローだった。

88年からPBA(当時)ワールドカップに参戦し始め、89年から95年にかけて、ワールドツアーをフルカバーした。
ワールドカップに散発的に参戦した日本人選手は幾人かいたが、飯島のように、マウイに移住し、長期にわたってツアーし、その間(正確には91-94年)、年間総合ランキング32位以内をキープ、トップシード権を保持した日本人選手はいない。
そう簡単なことではない。当時のPBAワールドツアーは、世界各国で年間20数戦に及び、日本だけでも、御前崎、新島、三浦の3戦があり、コースレース、スラローム、ウェイブの3種目を擁していた。
全種目をカバーしていた飯島の旅荷は道具だけで200kgを越えた(オーバーチャージの計算で、いつも秤に載せられたから確かなのだ)。
ギリシャやカナリーなど、離国へのツアーは、航空運賃、オーバーチャージ、レンタカー、滞在費でつねに数十万以上の出費となった。
ロビーやビヨンなど、スーパースターならポーターやメカニックに助けられもしたであろうが、飯島はひとりで(寛子夫人の細腕サポートはあったけれども)すべてをマネージメントしなければならなかった。

初めての国、初めての空港で、60kgのボードケースを引きずり、いちばん安いレンタカーの屋根に上げ、宿を探すことから始めなければならなかった。
戦える道具をゲットし、金策し、時差と闘い、大荷物と格闘する。並みの選手であれば、旅のストレスだけで保たない。他のプロたちは、だから散発的参戦に留まったのだ。
飯島は文字どおり「世界」と闘い、結果を残した。

そして飯島はいま、「世界」よりもずっと手強いものと闘っている。
勝った負けた、とは言わない。本人は「受け容れた」といい、「この病気が治って欲しくない」とまで、真顔で言った。こう書くと、この原稿をここまでしか読んでいない時点のあなたには信じられないだろう。
私は、この取材でしかし、そういう精神的境地が、たしかにそこにあったことを、目の当たりにした。
でも、かれはこう言うに決まっている。
「いや僕はへっぽこで」
嘘だ、あなたみたいの、いないよ。
飯島夏樹はかつてヒーローだった。と書いたが、
間違いだ。いまのかれこそ、ヒーローだ。

ウインドサーフィンを始めて、ハマり、好きが昂じてプロになる。それが一般的パターンだが、かれは違った。子供のときから、一流のスポーツ選手になることが夢だった。水泳でそれを目指し、中学時代は八王子市レベルでは最強、都立八王子東高校に進んでインターハイを目指したが、腰を痛め、夢破れた。
「いまからでも間に合うスポーツはないか」と真剣に探し、ウインドサーフィンに思い至る。
小学4年になるまで海を見たことがなかったくらいで、ウインドなんて触ったこともなかったけれど。
ウインドサーフィンなら沖縄だろうと考え、卒業まで時間がなかったが猛然と受験勉強、琉球大学教育学部保健体育科に合格。
重いウインドサーファー艇を、担いで海まで運び、台風の日も、全く無風の日も、毎日休まず海に出た。台風の日はノンハーネスで立ち向かい、全く風のない日も、少なくともバランス訓練になるだろうと、リグを外してボードに立った。


デビューは衝撃的だった。
デビューと同時に、スターになった。
87年、アメリカ・オレゴン州のゴージプロアマ。ビッグイベントである。全く無名だった飯島はするするとスラローム・アマクラスのファイナルに進出。2回もトップを引いたのだ。そのふたつは途中ミニマムウインドを満たさず惜しくもキャンセルになったが、総合7位。アマクラスといえレベルは高い。世界各国から、若く、生きのいいバリバリが127名も参戦したのだ。
さらに飯島は、ショートボードに乗り始めて1年に満たず、スラロームボード一枚、6.3㎡のニールプライド一枚きりしか持っておらず、国内のスラロームレースに出たことすら無かったのである。
87年といえば、ロビー・ナッシュが8年間守ったワールドチャンプの座を、ビヨン・ダンカベックに譲ることになる前年である。サムタイムワールドカップは4年目。ワールドツアーはいよいよ盛んで、このスポーツが激動し、大きくなっていった時期だった。
牧野秀紀や中里尚雄が散発的に好成績を残していたが、しかしいまだ世界は遠かった。
そんな折りの、まるであらかじめ脚本が用意されていたような、20歳のデビュー劇。
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183cm、80kgの体躯もスケールを感じさせ、ハイウインドも、日本ウインドサーフィン界も、以降、かれに注目せざるを得なかった。
飯島は行動力のかたまりだった。もともとウインドサーフィンのために進学したのだ。さっさと琉球大を休学してフルタイムのプロになり、88年には新島のマルイオニールWCに参戦。89年、カナリー・ソダヴェンドのスラロームでは6位入賞を果たし、日本に軸足を置いていては強くなれないとマウイに移住、PBAワールドツアーをフルカバーするようになる。
このころ、会うたびにかれは話してくれた。
海から、マカワオの家への帰途、道ばたで、二本指のジャクソンカメレオンを捕まえたこと。
オーバーチャージをディスカウントしてもらうためのゴネかた。アルバの殺人的紫外線。ポッソの暴風。ストラップ擦れで、足の甲の皮膚がズル剥けになる辛さ。
私は思った。そんな毎日を日記にすれば面白い記事になろう。
90年の夏に連載が始まった『飯島夏樹の生活誌』は人気で、50ヶ月余り続いた。ネットはまだなく、国際電話も高かった時代である。夏樹と寛子夫人のご両親は、生活誌を読んで彼らの消息を知ったものである。
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「この病気が治って欲しくないんですよ。
だって治ると、書けなくなるだろうから」
と、夏樹が言い出したときにはしかし、
さすがにマジかよと私は思ったが。


「TOKOさん、生活誌初回のリードで、『飯島夏樹は過剰なものを抱えている』と書きましたよね」
そう言われて、私はぎょっとした。
たしかにそう書いた。もう、15年も前のことだ。
驚いたのはしかし、かれが覚えていたからではない。
いま書いている、この原稿も、そのフレーズで始めようかと考えていたところだったからだ。
「あれって、するどいなあって思って」
その行動力、意志力が並みではなく、過剰だという意味で私はそう記した。このたびの闘病についても……。
飯島の認識はそうではなかった。
「僕はへっぽこで、小心者のくせに、分不相応なことをやろうとする。そういう意味で過剰で、無理があるんですよ、そこを見透かされたと思って」
頑張りすぎるきらいはあるものの、かれはいつも闊達で、前向きで、有能なスポーツマンに見えた。しかし、かれはそのような、「ワールドカッパー・飯島夏樹」を、無理をして、演じていたというのだ。

ほんとうは神経質で、精神状態が直接体調に影響するのだという。子供の頃から過敏性大腸炎で、小学一年生から中学二年生まではほとんど毎日腹を下していた。
プロウインドサーファーになってからは睡眠障害に悩まされた。自分がプロウインドサーファーであることの、居心地が悪かった。
もとより、好きが昂じてプロになったわけではない。自己実現のために、自らに過剰なストレスをかけ、躾け、プロであろうとした。
無理があった。無理が不眠につながった。旅や時差でへとへとなのに、眠れない。風が吹いて、レースがあると、疲れによって神経過敏になり、余計に眠れない。3日4日と風が続くと、壊れそうになった。
生活誌に「雨の日が好きだ」と書いたことがある。
晴れて吹けば、海に出ねばならない。吹かずともジョグしたりすべきだ。けれど雨なら今日はオフと割り切れ、家でのんびり本を読んでいても、罪悪感を感じなくてすむ……。

選手時代の後半、飯島の心身はさらに安定を欠いた。他人の評価が神経症的に気にかかるようになり、この人は、自分の前では夏樹はすごいと言う。けれど自分がいないところではどうなのか? 疑心にかられ、対人恐怖症に陥り、人の目を見て話せなくなった。
海やウインドサーフィンは好きだった。けれども、ウインドサーフィンを仕事とすることには最後まで馴染めなかった。
8年間の現役のうち、良い日は2日しかなかったように思える。

ひとつは、ゴージでデビューした日。
もうひとつは92年のアロハクラシック、フルメンバーのコースレーシングで、総合9位で終えた。5位のレースがあり、前にはたしか、ビヨン、アンダース、パトリス、ロベールしかおらず、
ロビーはずっと後方だった。
いままで頑張ってきて自分に、神様がご褒美をくれたように感じた。
それ以上は思い浮かばない……。
かれの引退は、それまでの活躍からして、唐突に感じられたが、そういう背景があったのだ。
引退後はグアム島ココスに移住し、当時スポンサーだったJALの勧めで、ミクロネシア最大のマリンスポーツセンターを経営した。ビーチフロントの白亜の邸宅に住み、子宝にも恵まれ、ビジネスも順調で、傍目には順風満帆に見えた。
しかし、そこでも「自分以上の自己実現を目指して」無理をした。
経営の経験なんて皆無なのに、小さくない金額を動かし、従業員の生活を預かることにプレッシャーを感じていた。

タバコは吸わないし、不摂生はしない。しかし、自分を追い込んでしまう、そういう性格が知らず、

体に負担をかけていたのかも知れない。

2002年の春、微熱が続いた。仕事から帰ると、疲れのあまり、ソファに横になったきり動けない。
同じ時期、父親を多臓器不全で亡くしたこともあり、自分も念のためと、受けた人間ドックで、肝臓に、ソフトボール大の腫瘍が見つかり、同年6月8日、悪性との告知を受けた。
グアムの仕事は続け、定期的に日本に帰って診断を受けた。診断を受けるたび、再発していた。病勢にともない、抑うつ傾向までもが進み、もはや仕事を続けることはかなわず、2003年3月30日、ココスの会社の経営を実兄に委ね、家族で日本に引き揚げた。

かれは全てを失った。
海に出る力、仕事、行動の自由、そして時間。
家族は失っていない。しかしその家族とて、自分の今後を考えれば、ある意味つらい存在である。
悲観と、最初の手術後のひどい痛みがトリガーになり、重度のうつ病とパニック障害を併発した。
最初は都内の人混みが耐えられない程度だったが、音楽が聴けなくなり、活字が読めなくなり、自律神経が狂って手足が冷たくなり、ついには子供の顔も見られなくなった。
今年の2月、癌が急に悪化の度を早め、築地の国立がんセンター中央病院に入院、肝右葉(肝臓にも右と左があるそうだ)の全摘出手術を受けた。
浸潤性の血管肉腫かつ類血管内皮腫という難しい癌で、37歳という年齢、B型肝炎、C型肝炎のキャリアでもなく、アルコール性でもないことを診れば10万人にひとりレベルの症例であることが判明。国立がんセンターといえば日本の癌治療の権威だが、そこでさえデータがない。つまり治療指針がなく、痛みを抑え、経過観察するしかない。可能性があるとすれば、生体全肝移植だが、現実的には不可能との断が下された。
結果、飯島夏樹は余命半年の宣告を受けた。
つまり、今年いっぱい。
…………。
しかし、
どういう種類の神様の配剤によるのだろう、
かれは伏すことなく、むしろ跳ね起きた。
手術、余命宣告と前後し、まるで風邪が治ったようにうつが癒え、猛烈な勢いで小説を書き始め、それが編集者の目にとまり、とんとんとんと嘘みたいな進行で、7月30日、新潮社から発刊されることになった。
だから、この小文を、あなたが読んでいるいまこのとき、書店に並んでいるはずである。
『天国で君に逢えたら』
帯はあの中田英寿が書く。
余命6ケ月の新人作家がデビューした。
「この期に及んでやっと天職に出会えました」と、
本人、笑うのだ。
神秘はひとまず措くとしても、経験がない書き手が、長編小説を編むことは、相当の精神的肉体的負担を強いるはずだ。
余命宣告を受けた極限的な精神状態で、にもかかわらず、何が、鬱を乗り越え、さらに小説を書かせしめさえしたのか? そう聞いても、
「なんでですかね、寛子が支えてくれたからかな、」と、本人も、本心から実感として謎、のような様子だ。

『天国で──』にもその名が出てくるのだが、米国の精神科医、エリザベス・キューブラー・ロスは、もはや古典となったその著書『死の瞬間』で、ヒトは、否認(嘘だろおれが癌なんて)、怒り(なんでおれなんだ!?)、取引、抑鬱、受容の5段階を経て死に至ると記した。
飯島夏樹も、その例に従っているのだろう。
しかしそれはただの平凡な一般論だ。
かれの場合、余命半年と宣告され、生まれて初めて小説を書き始め、しかもそれが、中田が帯を書いて出版されるレベルに達しているのだ。
本誌にも、日記やエッセイを寄せてくれたとおり、夏樹はもともと、書くことは好きだった。
癌告知を受けてからうつ病になるまでの間、何かを伝えたい、残したいという気持ちでホームページに日記をアップしたり、知人に手紙を書いていたりしていた。

「けれど、癌や死というリアリズムに対して、日記や手紙というリアリズムの文体で立ち向かうと、どんどん落ち込んでいって読後感の悪いモノになって」
「ユーモアだ、ユーモラスな小説がいい、それならば、弱者に優しく、希望があって、リアリティの奥底に入って行ける力があるのでは、と気づいて」
書き始めた、処女小説を。
「まるで、いままでの人生全てが取材だったようで、頭の中に物語りが溢れてきて、アウトプットせずにはおれないんです、書く手が間に合わないくらいで。右肝全摘手術を控えていて、それで死ぬ可能性も1%くらいはあったんで、締め切りが迫っているという気持ちも手伝って筆が進んで」
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「一応、今年いっぱいとして」
今年いっぱいとは、宣告された残り時間なのだ。
話し始めた。まるで未来が水平線の向こうまで
ひろがっている小学生が、夏休みの計画を話すように

創作者は、よく、神が降りてくるとか、何者かに書かされたというが、それは具体的にどういう経験なのか?
「ウインドサーフィンをしていると」
かれはなんとか言葉にしようとしてくれた。
──ウインドサーフィンをしていると、風には逆らえないって分かるじゃないですか。
選手だったとき、野心をたぎらせて、何十万も遣ってギリシャの離島くんだりまで遠征に行くわけですよ。でも風が吹かないと、何も出来ない、諦めるしかないんです。吹くか吹かないかは、自然に委ねるしかないわけですよ。
僕の癌、頸にナイフを当てられて、ぐいぐい力が加えられてるようなもんで、じっさい体はどんどん弱ってくわけですよ。でも、病気に殺されるんじゃなくて、いまは生かされている。そう実感できたらば、体が弱れば弱るほど、頭の中に物語りが溢れ……というより、すでにそこにある物語りが見えてきて、自分の文章技術の拙さをもどかしく感じながら──だから自分では作家なんて恥ずかしくて作文家って言ってるんですけど──見えている物語りを筆写しているようなかんじで……。
与えられた、といえばこの環境もそうです。がんセンター16階の、この談話室の、窓際のこの席で毎朝4時頃から書き始めるんです。眼下は築地市場、レインボーブリッジの向こうに、お台場のフジテレビ。東京湾に入るブローを見ながら書くんです。
築地市場にはおいしい鮨屋があるし、寛子とよく散歩するんですけどね。築地市場って、セリとかで活気があって、食を扱っていて、「生」の象徴なんですね。けれど、窓ガラス1枚隔てたこのがんセンターは、癌患者ばかりの「死」の象徴なんです。
ここで原稿を書いていると、よく声をかけられるんです。やはりお年寄りが多いから、「お若いのに、どうされたの?」みたいなかんじで。
皆な、ほんとは、自分のことを話したくて、僕に聞いて欲しくて、声を掛けてくるんです。だから、労せずに、濃くて生々しい取材ができるわけで……。

そのようにして生まれた『天国で君に逢えたら』は、どんな小説か?
ひとことで言うと、若い癌患者が、運命を呪い、やがて死を受容し、妻や子になにかを残そうと格闘し、安らかな死を迎える哀しい物語り。
しかし、ハッピーエンドなのである。
癌患者の心理と治療の詳細が真に迫るし、ウインドサーファーである私たちには、スプレックスとか、カイルア、ロビー・ナッシュとか、どしどし登場するので、とても親密だ。かれを知る人なら「琉大WSF部先輩の関西弁の杉本さん」とか「お調子者のナオト」とか、トリビア的な面白さもプラスされよう。
飯島夏樹を知らず、ウインドサーフィンをしたことがない人が読んでも、そのユーモアにくすくすと笑い、中田英寿が評したように「こみ上げる想いを抑えることができなかった」という読後感を得るだろう。
しかし、
「わたしはまだ読めないのです」
と、寛子夫人は言う。あまりに生々しすぎて。
ほとんど10年ぶりに夏樹に会い、2時間ほど取材しただけの私にだって彼女の気持ちは分かった。
こういう経過で、この状況で、夏樹がこの物語りを編んだのだと知りつつ読むと、足下垂直に、300mも落ちるハレアカラクレーターリムのエッジに立って天空の虹を仰いでいるような、雄大で、痛々しい気持ちになってしまうのだ。

「この病気が治って欲しくないんですよ。だって治ると、書けなくなるだろうから」
と、夏樹が言い出したときには、しかしそれでもさすがにマジかよと私は思った。
聞けば、『天国で──』に続く小説をすでに3本、書き終えているという。この短期間に、である。
かれも、小説の主人公のように必死に、残される4人の子供たちに、自身が生きてきた証しを残そうとしている。それが、それら小説そのものなのである。
多少なりとも売れれば、彼らに印税を残せるという現実的な要求もある。いま、小説を書くことは、かれにとって、ものすごい生き甲斐なのだ。

小説の取材が一段落すると、かれはびっしりと予定が書き込まれたスケジュール帳を取り出し、話し始めた。
「一応、今年いっぱいとして」
今年いっぱいとは、宣告された残り時間なのだ。
話し始めた。まるで未来が水平線の向こうまでひろがっている小学生が、夏休みの計画を話すように。

──退院したらまず、キャンピングカーを借りて、家族6人で旅行しようと思うんです。思い出の地を巡るセンチメンタルジャーニーですよ。
まず、逗子のデニーズ、琉大時代、プロになるため休学して、湘南武者修行に出て、そんとき、逗子のデニーズのはす向かいにガソリンスタンドあるじゃないですか、あそこでバイトしてたんですよ。甘くてつらい、思いでがあるんです。

そして、森戸の常さん(石渡常原)に線香をあげにゆきたい。常さんが亡くなったとき、僕、世話になったのに、うつ病で、葬式にも行けなかったから。
次の日は御前崎ですね。寛子と知り合った場所を、子供たちに見せてやりたいので。

(■筆者註:ふたりは、89年、サムタイムワールドカップのヤマハブースで知り合い、瞬時に恋に落ちた。日本のホープと、当時は景気が良かった本誌でモデルなどもしていた美女の、人も羨むロマンスだった)
(■さらに筆者註:私は、そのキャンピングカー計画はやめたほうがいいと進言した。私は、渓流釣りに伴う車泊のエキスパートで、累計数百泊に及び、車泊についての本を書こうと思っているくらいなのだ。
真冬の車泊は、分厚い衣類と寝袋さえあれば快適なのだが、日本の夏の、熱帯夜のそれは、元気な若者でもぐったり疲れてしまう、危険だよと。
しかしかれは決行した。しかもこの7月の酷暑である。帰宅後、かれは胃と食道の静脈瘤破裂による下血をきたし、この原稿を書いている7月26日現在、危険な状態にある。私はなにも、だから私の言うことを聞けばよかったのに、と言いたいわけではない。
むしろ、そんな状態なのにあえて家族旅行を決行した、かれの「過剰さ」「生命力」に対する宗教的尊敬を禁じ得ないのだ)

──余命半年を宣告されたら、ホスピスを紹介してもらえるんですよ。主治医は僕と同い年で、子供もまだ小さくて、医者と患者というより、パーソントゥパーソンで親身になってくれるんですよ。
「どこがいい? やっぱり生まれ育った八王子?」
って彼に聞かれて。
そうだなぁ、って考えて。
僕はウインドのプロになるため琉大に行って、それからマウイ、グアムと、人生半分南の島で、やっぱ南の島だなぁって。グアムを調べたら、ホスピス、台風で潰れちゃったって(笑)
それで、オアフに決めたんですよ。

オアフのホスピスで痛みをコントロールしてもらって、
死の寸前まで小説を書いて。家族に見守られ、安らかに天国に召されて、そこでのんびり、寛子や子供たちに再会できる日を待つんです……。

そこは癌病棟なのである。長居はしていられない。
「じゃあそろそろ」と、私は辞そうとして、言葉に詰まった。
「また」とは言えないのである。
これが、今生、かれと話す、最後の機会となる、可能性が高いのだ。
飯島夏樹は至って平常、まるで、むかし、かれが全盛だった頃、幾度も取材しては別れた頃のようで。
…………。
私は、はたと了解した。
飯島夏樹は、一流のプロスポーツの選手になるという子供の頃からの夢を実現した。
「生活誌」に、かれは書いたことがある。死ぬまでに世界中を見てみたい。その希望も、ワールドカッパーになることで実現した。
ものを書いて生活できればいいなと思うことがある、夢だけど。とも書いた。実現。
経営者として成功し、グアムの、夢のようなビーチフロントの邸宅で、幸福を絵に描いたような家庭を築きもした。
言葉に詰まった私は、そういうことをかれに言った。
「要するに夏ちゃん、ぜんぶメイクしちゃったんじゃん」
そういやそうですね、と飯島夏樹は、沁みいるような笑顔を見せた。

■2004年7月3日
国立がんセンター中央病院にて取材