……………… 瀬堀エーブルさん (元漁師 72歳) 2002 ………………

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小笠原のエーブル大兄72歳、
末期ガンで余命1月、をうっちゃり、
前人未踏、父島 →母島横断達成す。
なめんじゃねえぞガン細胞。


「瀬掘エーブルさんが、主治医から、ガンのため、今月いっぱいの宣告を受けています」
逗子市長・長島一由氏から届いたメールにはそう記されていた。
氏は、早稲田大学連時代、父島カップに出場し、小笠原ローカルの兄ィ、というよりは親父的な存在の、エーブル氏と親交を深め、約7年前、フジテレビ在職時代、大兄を主人公に報道特番を制作、ともに父島→母島横断を試みたが、セットした7.5㎡ではセイリング不能になるまで風が吹きあがったり、無くなったりで、10時間闘ったが、母島まであと5キロのところで、日没断念している。
海峡は風が乱れ、潮流が激しく、馬力のあるボートでも翻弄される難所もある。
横断は、小笠原ウインドサーファーの夢であり、これまで何人かの若い、屈強なウインドサーファーが挑戦してきたが、いずれも敗退している。
ブランケット(風向)、潮、パズルが解けるような条件に恵まれないと困難なのである。
長島氏とチャレンジした当時、エーブル大兄は60代半ば、ガンですでに、右腎は全摘出されていた。
大兄は夢を捨てなかった。
ガンはゆっくりと進み、左腎と肺のそれぞれ一部を失い、8月、主治医に余命1月と宣告された。
大兄は伏すことなく、むしろ跳ね起きた。
毎日丘に登って海を観察し、チャンスを待った。
そして8月28日、
「思い残すことなく死ぬために」
08時、父島前浜からランチング、7時間半後、母島沖港に上陸した。
ふつうならベッドに縛り付けられ、チューブや点滴につながれているはずの、72歳の末期ガン患者が、屈強な若者でも困難な冒険を成した。
快挙、などという言葉では薄っぺらい。
ヒトや、海や、風、ぜんたいの、ガイアの生命力を感じさせる出来事だ。
余命1ケ月などという医学的常識などくつがえす奇跡が起こりそうな気がする。
否、奇跡はすでに起こったのだ。







瀬堀エーブル大兄はれっきとした日本人であり、瀬堀、は小笠原ではもっともトラディショナルな姓である。小笠原諸島は16世紀、日本人によって発見されていたが、ずっと無人であり、1830年、米国ボストン州の漁師、Nathaniel Savory(ナザーネル・セボレー)が上陸、以後、捕鯨のために定住した。ちなみに日本人が移住し始めたのは、さらに30年を経て後のことである。
瀬堀はセボレーの子孫で、エーブル大兄は4世。
セボレー直系の子孫は、島にもう4-5人しかいない。
欧米系の小笠原島民は、江戸、維新、明治、第二次世界大戦と、政治に翻弄されてきた。
エーブル大兄は、昭和4年11月7日、父島生まれ。
青い海と森で遊び、のびのびと育った。
高等小学校を卒業すると、太平洋戦争が始まり、日本兵の宿舎建設にかり出され、1944年、日本軍により島民全員が強制的に本土に疎開を命ぜられる。
大兄は練馬の薬莢をつくる軍需工場に配された。
高い塀で囲われた敷地内に宿舎もあり、兵の監視下にあった。空襲で危険なこともそうだが、それでも食料がないのに、顔がアメリカ人なので差別もされ、
「あと2、3ヶ月戦争が続いていたら餓死していた」
戦況は悪化し、薬莢をつくるための金属や火薬がなくなった。ガソリンが底をつき、薬莢はトラックではなく牛車で運び出されるようになった。
空襲いよいよ激しく、ある日塀が壊れ、監視もいなくなり、エーブル少年は、まだ動いていた東上線に乗って、埼玉の嵐山に逃げていた両親の元へゆき、命をつないだ。
終戦の翌年、46年10月に帰島を許された。
島は米軍に占領され、戦争で家を失った人も多く、かれらはしばらく米軍兵舎で起居したという。
戦争が始まると英語が禁止され、戦後は英語が公用語になった。日本人として生まれたが、血はアメリカに近い。混乱は、こたえたであろう。
しかしひとまず、戦争は終わった。
エーブル少年は父親に倣い漁師になった。後年、7、8年ほどグアム、サイパンに出たことがあるが、それも出稼ぎの海運業だったので、大兄はその人生を通じ、戦時中を除きずっと海で暮らしていることになる。
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19歳の時、ひとつ年上の、ハワイ出身の幼なじみと結婚。二男二女をもうけた。
父親と、小笠原の恵まれた海で、カツオ、マグロ、サワラなどを1本釣りし、潜って伊勢エビを捕った。
木製のアウトリガーつきクリ船(一本材を削ってつくる)で、油ではなく風で走る。
潮流や風が強く複雑な海域である。大兄は海を知り尽くし、その小さな帆船で自在に巡った。いまの人は、遊漁船やダイビングボートなど、エンジンパワーに任せて海を突っ切る、危なっかしくて、はらはらすると大兄はいう。大兄は、伝承漁法、アオウミガメ獲りの名手だった。
道具から自分で造らねばならない。
森に入り、いまは準絶滅危惧種になってしまったビロウという椰子科の幹を切る。樹齢100年以上でなければ、しかし、細くなければならない。であれば、堅く、張りがあり、比重が高く、漁に適した浮力がある、ヤスの柄になる。
帆船で海に出、アオウミガメを見つけて、ヤスを抱いて飛び込む。甲羅めがけて撃つ、鋼の矢じりが刺さるが、それは致命傷を与えない。矢じりは柄に固定されておらず、紐でつながっている。柄を離すと浮力で浮こうとする。ウミガメの運動を制限し、浮きとして目印になる。疲れて、呼吸のため浮き上がってきたとき、船上から止めのヤスを撃つ。
この漁法ができる人は、島にもう2、3人しかいないらしい。
ウインドサーフィンがすきですきで、
ゆめだった、横断ができたから、
もうおもいのこすことないね、
島にかえったら、父島一周して、
孫にウインド、おしえたいね

———エーブルさん、おもいきり
「思い残して」るじゃないですか。


エーブル大兄がウインドサーフィンを始めたのは、77年、48歳のときだ。
島の若いのが東京で買ってきて、扇浦で乗っていた。
アウトリガーの帆船でウミガメを追った過去をもつ大兄である、ブームとジョイントがまだ木製のサーファー艇、ちょいとやらしてくれと借りたが、これが乗れない。3日くらい転んで、悔しくて自分のボードを買い、1週間後には、自宅から、当時勤めていた浄水場まで、距離にして7kmを、ウインドサーフィンで通うようになった。
地元フリートのレースに出たが、見事にビリ。
しかしすぐに誰にも負けなくなった。
年間300日海に出ていた。風が弱すぎて、だれも出ていないときも、エーブル大兄のセイルだけはいつも海上にあった。
父島カップは、先述のとおり長島氏など学連のトップも出るレベルの高いレースだが、優勝こそないものの、2位、3位では終えている。
大兄の居間にはトロフィーがたくさん並んでいる。
レースやプレーニングやジャイブも好きだが、要は海が好きなのだ。生まれてから、ずっと暮らしてきた藍色の海で遊ぶことが。
小笠原にはザトウクジラがくる。
12月はじめに群れが来、出産し、子を育て4月なかばアラスカへ旅立つ。
クジラを見つけると、大兄、セッティングし、そばに行く。ウインドサーフィンは最適らしい。エンジン音がしないから警戒しないのだという。
大きいのは15mくらいある。
「その気になれば背中に乗り上げられるよ」
母島横断はずっと夢だった。
それだけじゃない。伊豆大島から房総半島への横断を狙って、大島にひと月待機したこともある。
ガンになり、18年前、右の腎臓を取った。
その8年後、ガンが転移した左の腎臓の1/3、3年前、肺の一部を切除した。
ガンになってから、当然である、奥様は、海に出ることに反対するようになった。いやちゃんと帰るから、何時までには帰るからと説得した。
自宅の2階からは海が見える。
大兄のセイルには長い吹き流しがついているから、奥様は海に出ている夫を確認できる。
それでなんとか許してもらった。
横断のチャンスは、なかなか訪れなかった。
残り時間は刻々と減ってゆく。
5年前から、暇があれば丘に登って海峡をチェックするようになった。エベレスト登山隊がベースキャンプを張り、頂上を眺めてアタックの機会をうかがうように。
ガンになってから、大兄は腎透析や検査のために、定期的に東京の女子医大病院に通っている。
この8月の始め、新たな転移があることを知らされた。膵臓ちかくのリンパ腺に転移がある。大動脈があるので手術は難しい、と。
手術はできないのですか、と訊くと、主治医は言った。——できないことはないけど、エーブルさん、この病院のベッドに寝たきりになるよ、小笠原には2度と帰れなくなるよ、島に帰ったほうがいいんじゃないかい?
余命は、と訊くと、大兄の意志と人格を尊重しているのだろう、主治医は正直に告げた。
「10月いっぱいでしょう」
………………。
8月13日、大兄は島に帰った。
そして28日、チャンスが来た。
大兄は家族に、絶対やる、やらせてくれ、と頼んだ。25年来のおれの夢なんだと、やんなきゃ死にきれないんだと。
次男のロッキーさんは、ながく三井物産に勤めていたが、いまは島に帰って、アメリカントレーラーハウスを使った民宿を経営し、パワーボートを持っている。
ロッキーさん、最初は冗談じゃないと思ったが、伏しても気が滅入るだけなら、あれほどやりたかった横断に出してやろうと思い直した。
ボートに、小笠原役場に勤める長男のアル、父の友人で言語学教授のダニー、男3人で乗り込み、なにかあればすぐにレスキューすればいい。
母島は、父島のほぼ真南に位置している。海峡は直線距離で約50km、出艇地と着艇地では60kmくらいだろう。

難所が、父島、母島のそばに一カ所づつあった。
潮がもみ合い、時化でもないのに三角波が3-4mに達するのである。とくに母島近くのそれはワンド根と呼ばれる有名な難所だった。
潮は6時間ごとに緩む。大兄は、潮が緩む時間に父島を出、6時間後に母島に上がるという計画を立てた。時速10km計算だが、ボードは95年のF2ライトニング。249リットルのボリュームがあり、セイルはニールのV8、あえて小さめの6.0平米だから、低速クルージングしやすく、問題は少ないだろう。
前浜をでてしばらくは父島がブランケットになるので、全く風がなくなったり、とつぜん反対から吹いたりして手こずったが、島影を抜けると、快晴、凪いだ太平洋が広がり、東よりの軽い風が海原一面を撫でていた。
アビーム、やや下りのポートタック一本で母島に届く。カツオドリの群れが大兄の頭上を舞い、護るように併走した。
神の祝福かと感じられるくらい順調だった。
ポートタック1本だったので、腕や背中が張って左のマスト手は動かなくなったが、島影を抜けてから母島の近く、ファーストタックポイントまで、大兄は一度もセイルを落とさなかった。
しかし順調すぎた、艇速が速すぎ、タックが早すぎ、まだ潮目の時刻に達していないワンド根に突っ込んでしまったのだ。

大兄は初めてセイルを落とした。
三角波の底にいるとボートが見えなくなった。
ロッキーさんのボートは23フィートで、115馬力の船外機を積んでいるが、ここを走るのは難しいという。
大兄はこのとき、耳が全く聞こえなくなっていた。3人はなんとかエーブル親父をデッキに引き上げ、母島を離れ、静かな海面に移動した。
水を飲み、キムタクのようにゼリーをチャージすると耳が聞こえるようになった。脱水症状を起こしていたのだった。
潮が落ち着くのを待ち、兄ィはふたたび太平洋に立ち、セイルに風を入れ、そこからふたつのタックで母島の沖港に入り、上陸した。15時半だった。
すぐにボードとセイルをボートに上げ、父島に帰った。桟橋では、妻や孫や、仲間、十数人が手を振っていた。エーブル兄ィは船では上陸せず、ボードを降ろしてパドリングでビーチに上がった。
皆なが駆け寄って来、島の花を捧げてくれた。
冷えた缶ビールを開けた。
生涯で、あんなうまいビールを飲んだことはなかった。その夜はパーティになり、翌日、海上保安庁の友人を訪ね、実走距離を出してもらった。
75kmだった。

私は(今回は、わし、はやめておこう)10月17日、竹芝埠頭に近い、旧芝離宮庭園でエーブルさんに会い、話しを聞いた。
エーブルさんはこの日の午前、女子医大で、前回に続く診断を受けていた。担当の看護婦さんが目を丸くしたらしい。
「もうエーブルさんに会えないなと思っていたわ、それが、前よりも元気になっている」

ぼくはね、ウインドサーフィンが好きで好きで、
だからずっと夢だった横断ができたとき、ほんとに嬉しかった、もう思い残すことないね。
ぼくが死んだらね、ネクタイの写真なんか絶対飾るなって言ってんの、ぜったいウインドサーフィンの、ウェットの写真をね。
写真を見て分かるとおり、背筋も伸び、あしどりもしっかりして、本当にそんなに病気が重いのかと信じられないが、表情は陰りがちだ。
あたりまえだ、医者に、死を宣告されているのだ。
「そう、いわれたとき、すごく、哀しかった」
エーブルさんの顔がいっそう沈む。
「でも、横断できて、おもいのこすこと、ないから」
翌日、エーブルさんは島に帰る。
島に帰ったら何をしますかと聞き、聞いてから、酷な質問だったかもと後悔した。
するといくつもお答えになるのだ。
「ぼくね、父島一周は3度したから、隣の兄島とあわせて一周したいね」
「息子たち、ウインドサーフィンやりたがらなかったから、いま12歳の孫には、ウインドサーフィン教えたい」
エーブルさん、すごい「思い残して」るじゃないですか。

この原稿を書いている10月27日夜、確認したいことがあってロッキーさんの民宿に電話した。
エーブルさんは? と聞くと、
ええ、元気ですよー、とのこと。きっと、父島兄島一周の作戦でも練っておられるのだろう。