……………… 生活エリートたちの、ウインドサーフィン・エンゲル係数 2004 ………………

HW0402_myself.pdffoto by TAKI
なんていうか、わしのぜんぜん知らない場所に、
ひろびろとした世界が広がっているような気がして

■ こんかい登場するのは、「わし」です。
この連載の取材執筆担当です。読者のみなさまに失礼なような気がするので言い訳しますが、年末進行のせいです、締め切りがいつもより一週間早いのに加え、エンゲル候補者は社会の第一線で活躍されているので、年末は忙しくて無理だったわけです。
「わし」ならアポをとる必要はないし、取材もいらない。っていうかわし自身もわりあい忙しいんですけど、だれにも文句は言えないわけで。
わしは、フリーで、雑誌記事や広告を作っています。わしがこの仕事をするようになったのも、ウインドサーファーになり、ハイウインドに投稿したことがきっかけです。ハイウインドは42号からだから、今号が、えーと、268号なので、227ヶ月、丸19年になります。
CIAのアンダーカバーをやっていたせいで2年ほど離れた時期がありますが、それ以外は休みなく、毎号、少なくて20ページ、多い月は4-50ページつくってきました。
30ページ平均として、掛けることの200、6000ページ(!) ハイウインドは、原稿料が素晴らしく高いことで有名なので、ざっと3億ばかり稼いだことになりますね。えーとそれと、いい機会だから言いますが、エンゲルや「兄ィ烈伝」で使っている、わし、という人称、小林よしのりの真似をしてるみたいですけど、
ゴーマニズム宣言が始まる前から、本誌で、わしゆーてきました。それくらい昔からやらさせていただいてます。やらさせていただいてよろしかったでしょうか。
57年9月、神戸生まれ。
明石高専土木工学科を出て設計事務所に就職し、カシオの関数電卓を目にも止まらぬ早さで叩き、微分積分を駆使して、橋梁や擁壁の設計をしていた。そういう過去をもつわしは、ばりばりの理科系だと、ちいさなプライドを持っていたのだが、こないだ神戸に帰って、小五の姪の、公文式算数幾何が、5問中2問しか解けなくて、がくぜんとしたわけで。
ウインドサーフィンを始めたのは81年の夏だ。
当時、街には、ウインドサーフィンやハンググライダーやカートのプロショップがぽつぽつ開店し始めていて、なにかが始まりそうな、なにか始めなきゃ、っていうような、わくわくする、あるいは取り残されそうで焦ってしまうような空気があった。時代がそうだったというより、たんに当時のわしの年齢とか精神状態がそうだったのかも知れないのだけれど。
わしはウインドサーフィンを選び、10歳のときからの親友とふたりでローンを組んで、甲子園のスプーキーでウインドサーファー艇を買った。たしかひとり毎月1万の、12回払いじゃなかったっけ。
その親友のキャラバンロングボディのルーフにサーファー艇を積んで、兵庫県の日本海側の、忘れたがどこかの海水浴場に乗りに行った。土用波のうねりが高くて、セイルは半分も上がらず、100回は落ちた。
海から上がって県道脇の空き地に水道を見つけ水を浴びようとキャラバンを停めると、羽根状スポイラーのシャコタン田舎ヤンキーグルマが数台乗り入れてきて、ファッションセンスばつぐんの田舎ヤンキーが
kenndoubu.jpg■16歳、剣道一級!b.jpg■20歳。なあーんも考えとらん
十数名どどどと降りてき、なんだなんだ?、木刀やチェーンでしばき合いを始めたではないか。
田舎ヤンキーのグループAは、数、凶暴さでグループBを圧倒しており、しばきあげられ木刀に追われるグループBの構成員のひとりがわしらのキャラバンに逃げ込もうとし、わしらはあわてて内側からロックし、その抗争を車内から見物したわけで──わし的には「北の国から」純のナレーション調で──それが、生まれて初めてウインドサーフィンした日の思いでであり。
いまみたいにCADもないので、計算も製図も手仕事で、仕事が立て込むと残業してこなすしかなかった。連日夜中の1時2時まで残業しても、定時の8時半には出社した。休日を心待ちにして、待ちに待った休日の朝、社の寮があった大阪から、ホームゲレンデの須磨に急いだ。阪神高速神戸線を西に走ると、若宮のカーブの手前で、眼前に海がひろがる。白波が見えると車中奇声を上げたものだ。
いつも、須磨海岸の東の端、水族館前から出ていた。坊主頭の、中学生の浅野則夫がいて(神戸の公立中学は丸刈りなのだ) お父さんと練習していた。
わしは神戸市立鷹取中学出身で、浅野則夫の先輩なわけで(オリックスのマック鈴木も)、誰にも言わないが、わしの自慢は、浅野則夫より先に、ジャイブできるようになったことであり。
ウインドサーフィンを始めてから、わしはどこか変わりはじめた。
それまでは、40年間神戸製鋼に勤めた親父のように生きる、人生ってまぁそういうものだろうと思っていたのだが、なんていうか、わしのぜんぜん知らない場所にひろびろとした世界が広がっているような気がして。
twenty-one.jpg■21歳、かのじょは良き母になってるだろうか197901.jpg■24歳、おかんと。いまでもわしの心配ばかり1990.jpg■32歳、左端。隣のおにーさんは身長2m!toko.jpg■46歳、仕事場にて、この記事を編集中のわし
83年5月、わしは会社を辞め、ホンダステップバンのルーフにランファンB1を積み、須磨へと帰った。
須磨海岸の素敵なところは、アパートや一軒家が、海の家のように、ビーチに建っていることだ。
わしはそんなアパートのひとつに引っ越した。
20代のモラトリアムが、
たぶん死ぬまで続くのだろな

波打ち際まで50歩もない。部屋は2階、ウエットのまま上がるから、部屋の畳はいつも砂でざらざらしていた。艇庫は1階、吹いていれば、5分で海に出られた。
失業保険と、阪神高速の夜間工事のバイトと、パチンコで食いつないだ。パチンコはわし、名手で、あがりでクルマを買ったこともあるのだ。
それは人生の猶予期間、モラトリアムだったが、なぜか、こんな暮らしをいつまでも続けてちゃいけない、とは思わなかった、どころか、わしはクルマを売ったりして、金を作り、アパートを引き払い、旅行ではなく、あてもないのに、2年3年、暮らすつもりで、ハワイに行くことにした。
旅立つとき、伊丹空港に十数人、ウインド仲間のほとんど全員が見送りに来てくれた。出国ゲートで皆の顔を見たとき、涙があふれそうになってあわてて背を向けた。当時のレートが1ドル255円で、トラベラーズチェック2000ドルぶんしか持ってなかった心細さ、いちばん見送りにきて欲しかったK子のすがたがなかった切なさも、泣きそうになった理由のひとつであった。
ダイアモンドヘッドは、ブレイクエリアのアウトサイドで、とつぜん大陸棚が切れ、エメラルドグリーンの海が深い群青になる。わしはそこで、ちょっとびびってジャイブするのが常だった。
インサイドに向かって走ると、波の背がせり上がって、ダイアモンドヘッドの褐色の肌を、裾からだんだん隠してゆく。波のエッジがきらきら光り、光の粉が左に飛ばされてゆく。とつぜん、エッジから2艇3艇とボトムが飛び出し、スローモーションのように着水する。
ウォータースタートに手間取ってると、彼らがわしにスプレイを浴びせつつジャイブし”You all right?"
とかけてくれた声が風に千切れる。それがピンクのセイルのUS-1111だったりした。
うーんマンダム男の世界じゃなくて、ハイウインドの世界やなあ、とわしはカンドーした。
ハイウインド、わしは発売日を楽しみにし、毎月買っていたのだ。当時のハイウインドはしばしば発売日が遅れ、誤字脱字だらけだったけど(いまでもか)、
ウインドサーフィンという、新しく、どんどん進化していたスポーツとシンクロして、その空気をリードしていたような魅力があった。
オアフでの生活は甘いものではなかった。クルマがなくて、やっとフルサイズのフォードを300ドルで買ったはいいが、すぐに壊れ、ウインドに行くのが不自由だったし、金を節約するため、2食つきで月250ドルの学生寮みたいなところに住んだが、日本人がきらいな堅太りの凶暴な韓国人ハワイ大生がいて(燃えよドラゴンのハンの手下のマッチョみたいだった)、そいつが難癖つけてはテコンドウを振るうので怖かったし、観光ビザなので働けず、もぐりでバイトするのだが、そういうのってちょっとみじめだし。
ある日、ヘッドに行くと、日本人のカメラマンがいて、ニコンの黒い500mm望遠レンズのシャフトに、ハイウインドのステッカーを貼っていた。
ハイウインドに投稿したらバイトになりますかねえ、と聞いたら、なるんじゃないですかねえ、と彼は言った。それからひと月かけて、大学ノート一冊分の、日記風のオアフレポートを作り、編集部に送った。
それは没になったが、オアフの小さな大会の取材などを依頼されるようになった。どんな仕事をするか、様子をみて、といったところだったのだろう。
マウイGPの取材を任され、鈴木啓三郎が借りていたキヘイのコンドの隅に寝かせてもらい、彼のレンタカーに乗っけてもらって毎日ホキパに通った。
その取材ノートを持ち、わしは9ヶ月ぶりに日本に帰った。虫歯のかぶせが取れてしまい、アメリカは医療費が高くて保険にも入っていなかったので、治療のため一時帰国しようと思ったのだ。
神戸に帰る前に、東京の編集部に寄り、泊まりで原稿に取り組んだ。2、3週間泊まったような。わしは薄っぺらい寝袋しか持っていなかった。着替えも下着もない。何度も何度も原稿を直し、明け方机の間に横になる。平日はいいが、週末は困った。編集部に鍵がかかるので、泊まれない。
歌舞伎町の個室ビデオで寝たり、マウイで知り合った女の子の家に泊めてもらったりした。彼女はおばあさんと同居していて、おばあさんはわしに対する警戒を緩めることがなかった。
苦労した原稿が、プロのデザイナーの手にかかって記事になり、本になるのは、かなり素敵なことだった。
神戸に帰る日、当時の編集長が、わしにいった。
毎月一定の仕事を保証するから、東京に越して、一緒にやらないか? こういうことを職業にするなんて夢にも思わなかったし、
意外で、ちょっと引いたが、神戸に帰り、84年が暮れ、85年の正月明け、わしは、ハワイでなく、東京に部屋を借りたのである。
そういうわけで、いまに至る。

会社を辞めて、須磨の海の家みたいなアパートで暮らし始めたとき、人生の猶予期間みたいだった、と書いたが、なんだか、いまに至るまで、ずっとその猶予期間が続いているような気がする。
来月、仕事あるだろうかという不安は常にあるが、
おもしろいことをして暮らせている。
たとえばこの連載、初対面の人に合い、いきなり突っ込んだ話を聞いて記事にする。取材という了解事項があるからそういうことができる。
わしはオトナなので私生活ではそういうことはしない。他人の私的なことにも興味がない。
だから、仕事によって2面的な生活をしているような面白さがある。
10年ほど前、ロビーさんの本を作ったとき、ワイキキからカイルアまで取材に通ったのだが、
「したらわしの家に泊まったらええやん」とロビーさんが言ってくれた。鍵を預かり、ロビーさんケイティさんが外出したときは留守番して原稿を書いていた。
トイレでおっきいちゃんをすると、すごく立派な、二の腕くらいあるおっきいちゃんがでたことがあった。出産を終えたような達成感があった。わしの出生体重は3300gだが、それに比肩すると思われた。困ったことに、流れないのだデカすぎて。ケイティさんに見られたら恥ずかしい。わしはあせり、バスルームから洗面器で水を運んだり、割り箸で突いておっきいちゃんを折ったりして、大汗かいて流したことではあった。ま、そういう経験も、こういう仕事ゆえである。

バイク事故で頭の骨を割ったり、バブルのときにマンションを買って大損こいたり、14年下だったこともあってすごく可愛がっていたのに奥さんに逃げられたり、知り合いに身ぐるみ剥がされたり、さいきんずっと左の肩がへんで、整体のセンセイに診てもらうと霊障で前世療法でしか治らないと言われたり、わしのジンセイも人なみに、いいことも(いいこと?)わるいこともある。
けど死ぬとき、わしのジンセイで良かったことベストファイブにきっと、ウインドサーフィンを始め、こういう職業についたこと、が挙げられると思う。