……………… very short non-fiction 1991 ………………

SWEET MEMORIES

夏の日の恋 1984

■84年4月4日、ホノルル市ベリタニアストリート沿い
のピザハットで、わしはその美少女に出会った。
名前はすぐに分かった。STEPHANIE、ピザハットの純
白のエプロンの、胸元の名札に書いてある。
ステファニー、か……ステファニー。
なんてこの、この世から3cmほど浮き上がっているよう
な、この美少女にふさわしい名前なんだ……。
彼女はパンピザとサラダバーの皿と1パイントのバドラ
イトをことりと置き、柔らかいのに、わしの胸のどこか
にちくりと刺さるような笑顔をし、歌うように、ENJO
Y! と言ってくるりと踵を返し、小鳥のように去っていっ
た。

生駒山が近い大阪の外れ、埃っぽい町の小さな会社で、
土木設計の仕事をしていた。
わしの親父は19のとき一月分の生活費だけを持って田
舎から神戸に出、大きな製鋼所に40年間務めて、家を
建て、ふたりの子供を育てた。わしは親父に愛されてい
るという実感があったので、わしも親父のような、実直
で平凡な人生を送る。人生ってそういうもんだろうと
思っていた。
いや違うな、正直にいえば、わしは目の前のことしか、
考えていなかった。24のとき、ウインドサーフィンを
始めて、わしは変わり始めた。
テニスに凝っていたときはそんなこと思わなかったのだ
が、ウインドで海に出、大海原をひとり、水平線を見な
がらプレーニングしているとなぜか、自分のぜんぜん知
らない場所に、ぜんぜん違う世界が広がっているのだろ
う。そんな、切ない気持ちになるのだった。
わしは具体的に何ら検証もせず、そういう気分に押され
るまま、3年半勤めた会社を辞め、神戸の須磨の海の家
みたいなアパートに引っ越し、仕事もせず、風が吹けば
ウインドサーフィンをして、ぶらぶら過ごしていた。
その日々は甘くユルく焦燥に充ちたモラトリアム、人生
の猶予期間だった。
9ヶ月が過ぎ、あてもないのに、2、3年、ウインドサー
フィンしながら、暮らすつもりで、オアフに行くことに
した。
オアフに行けば、何らかの新しい局面に出会えるような
気がした。なんの根拠もないのだが。
「オアフに、何しに行くの?」
そのときつきあっていたレイコに聞かれた。
どう答えたか覚えていない。カッコつけた、ぺらぺらな
ことを吹聴したのではないか。


deko.jpg物語の女性とは無関係。わしの奥さん(だった)ひとです。foto by TOKO 1995
84年2月25日、大阪国際空港の人混みの中で、わしはレイコの姿ばかり探していた。レイコはとうとう、見送りにも来てくれなかった。
オアフでの暮らしが始まっても、わしはじくじくと、レイコのことばかり考えていた。

次の夜、わしはまたピザハットに行った。
ステファニーに、ともだちになってくれないか、と頼むつもりだった。
和英辞書と竹村健一著「基本19語の英会話」を参考に、まずわしがこう言う、ステファニーがもしこう返事したらこう答えるという数ケースの問答文例を作り暗記した。わしはそういう種類の行動力と度胸は、すこしあるのだ。
オーダーを取りに来たステファニーに、文例その1を言うと彼女はぎょっとし、後ずさった。
「しもた」と思ったが落胆するには早い、すかさず文例その2で切り返す。が思わしくない。
「こらあかん」と落ち込み、ピザの味もなかったが、レジで代金を払うとき、ステファニーは意外にもこう言った。
「それならば次の日曜日、教会に行きましょう。朝の7時に店の前で待ち合わせして」
キリスト教には興味なかったが、もちろんわしは激しく首を振って同意した。
教会になど行ったことはなかったが、とくに真っ白や真っ黒のネクタイを締めてゆく必要はない程度のことは分かった。
日曜日、ステファニーは本当に店の前に来てくれた。古いアメ車に乗ってきた。男が運転していた。彼女の兄だった。
わしはなんとか粗相無く、最初のデートをやり終えたようだった。それから毎日曜日、兄妹と教会に行くようになった。
賛美歌を歌ったり、退屈な説教を聞くことは苦痛だったが、仕方ない、彼女に逢う手段はそれしかなかったのだ。
彼女はハワイ大学の2年生で、19歳だった。

ステファニー・ヤン。
ジャパニーズ・チャイニーズ。
日本人と中国人の血が混じると、不思議な女性ができる。
肌に透明感があり、彼女自身はその肌の奥にいるように思える。瞳はかぶと虫の色をしていて、光を背に立つと耳朶が透き通って見えた。
5月6月と過ぎるうち、ステファニーはふたりで逢ってくれるようになった。
逢うのはいつもハワイ大学のキャンパスで、テニスをしたり、ときには校舎の陰で愛を語ったりした。というのは嘘で、彼女はいつも聖書を開いてわしに読んで聞かせ、感想を求めるのだった。
わしがうわの空で、彼女の唇ばかり見つめていると怒って聖書を閉じた。怒ったその表情がまた可愛い。
「ステファニーはどんな男が好きやねん」
と訊くと、
「イエス様が選んで下さるわ」と彼女はまるで統一教会のようなことを言った。
わしは若く、まだいろいろなことを諦めていなかったので、イエス様が選ぶのはどういう男なのだろうと、真剣に考えた。
とつぜんステファニーが歌うように、一緒にキャンプに行こうよ、と言った。
わしは激しく首を上下させ同意の意を示したが、よく聞くとそれは彼女の信仰の、クリスチャンキャンプだった。信者同士で合宿して、信仰を深めるのだ。
キャンプ地は、ホノルルから西に2時間ほどドライブしたマカハの山奥にあった。なだらかな丘の、広大な芝生の、高い杉木立のなかに礼拝堂とバンガローがあった。朝の礼拝を我慢するとあとは楽しかった。アルミの皿に、自分で朝食を盛り、芝生でバスケットボールやフォークダンスをしたり、犬にフリスビーを投げたりした。
自然の中のステファニーは素敵だった。彼女は芝のスロープで、コマネチみたいにくるくるトンボ返りを打った。
干し草を積むようなトラックの荷台に乗って、町に買い出しに出かけた。
誰かが歌い出すと、荷台全員の合唱になった。みんなわしより5つ6つ若かったけれど、きらきら光るマカハの海を眺めながら合唱していると、なんや青春映画みたいやなあと思えて涙が出てきた。

夜のミサが始まった。壇上に、黒衣の、小柄な、太った中年の牧師が立った。
何らかの香が焚かれていた。40人ほどの若い信者たちは、軍隊の朝礼のように直立不動を崩さない。緊張の度が違って、明らかにいつもの礼拝ではなかった。
目を瞑らねばならないようで、わしも従った。賛美歌が3番4番と進むにつれ、あちこちですすり泣きが始まり、やがて嗚咽になった。
牧師が名指しで少年Aに語りかける。語りかけるというよりは絶叫だ。少年Aも絶叫で応える。
英語が聞き取れないが、
washi.jpgself, TOKO 1984bts_03_SSS.pdfdesign by Akitoラディカルな懺悔だということは分かる。黒衣が壇から降りてくる、信者の列を縫いながらランダムに絶叫懺悔問答をやる、みなは目を固く閉じ賛美歌を合唱している、わしは薄目を開け歌うふりをして観察している、とつぜん牧師が少年Bの額に手をあてる、少年Bは仰向けにぶっ倒れ、てんかん患者のように床で泡を吹き痙攣する、賛美歌の合唱が高まる、牧師は次々と信者をぶっ倒してゆく、わしは牧師がわしの額に手を当てませんようにと祈る、そのときが来たら演技でぶっ倒れるか? 開き直って傲然と立ち続けるか?激しく迷い続けていた……。
そのキャンプを最後に、わしは教会に行くのを止めた。
ステファニーとはときどき会ったが、やはり疎遠になり、さよならも言えないままわしは日本に帰った。

そのオアフ滞在は9ヶ月に及んだ。
「新しい局面との出会い」を期待したと書いたが、たしかにそれはあった。ステファニーのことではない。現在の、フリーランスのライター・編集者という職を得たのだ。観光ビザだったので働けず、アルバイトになるかと思って、愛読していたウインドサーフィン専門誌に投稿したら採用され、それがきっかけとなって、以後20年間この仕事をしている。須磨とオアフの、18ヶ月間のモラトリアムには一応の意味があったというわけだ。
翌85年の春、その、新しい仕事の、取材でオアフに行ったわしは、草加せんべいの詰め合わせを持ってステファニーの家を訪ねた。
が、彼女は留守だった。
最後にオアフに行ったのは何年だっけ。そのときもベリタニアのピザハットに行った。
もちろんステファニーはいなかった。
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