SWEET MEMORIES
KOBEの、海の、父の思いで ■それは、生まれて初めての記憶でもある。 60年代の初め。 冬の神戸港、正確にいうと摩耶埠頭、そこで見上げた親父の背中だ。 親父は神戸の大きな製鉄所の高炉で働いていて、ときどき火傷を負った。 朝早く、5時頃には出勤して、それを僕とお袋は省線(現在のJR山陽本線だ)を渡る橋まで見送った。妹は2つで、お袋の背負子のなか。 親父は夕方の4時頃に帰ってきたが、それまでぼくは、なにをして過ごしていたか覚えていない。 親父は、機嫌がいいと僕を散歩に誘い、決まって海へ、摩耶埠頭に行くのだった。 親父はいつもぼくを肩に載せ、ぼくは4つで、落ちないように親父の髪をつかむのだけれど、禿げてはいなかったが髪が細くて、抜けるのではないかと心配だった。 省線のトンネルを抜けると駄菓子屋があり、決まってカリントを買った。 ぼくの両手に余る紙袋いっぱいで30円だった。親父はときどき肩のぼくからカリントを受け取り、まるで同僚にするような話しを、4つのぼくにするのだった。 「ちんちんに毛が生えてそう経ってないころな、父ちゃん、隣の紡績工場の女工に惚れてな、これが細身の儚げなおれ好みの別嬪でな、埠頭でよく逢い引きしたもんだよ。ギターを練習してな、曲を聴かせたこともあったよ。 おまえ知ってるか、アイジョージの唄だよ。ガラスのぉぉぉぉってな。 ……でもな、爺ちゃん、頑固だろ、反対されてなあ、別れろってんだよ。 爺ちゃんには逆らえないよ。そのカノジョと泣く泣く別れてな、……心配すんな、おれはおまえには、そんな無理は言わないから……、でも参ったのは、日曜日、なんにもすることが無いんだよ。 仕方ないから、埠頭から飛び込んでな、岩屋の浜まで泳いだことがあったよ、2kmくらいかなあ、そのころは神戸港も、いまほど汚れちゃいなかったんだよ」 「それでさ、爺ちゃんに命令されてな、知り合いの田舎娘と見合いさせられてな、おまえの母ちゃんだけどな」 |
「おれが26、かあちゃんは22でな、鹿児島で結婚式を挙げてな、夜行の汽車でふたり、神戸に帰ったんだ、お互い照れて、なにも話せないんだよ、じっと下を向いたままでな、おまえ信じられるか? 19時間会話なしだぞ」 「水道筋の商店街に、ふたりで晩飯の材料を買いに行ったんだっけかなぁ、その帰りにな、かあちゃんそわそわし始めたと思ったら、急にしゃがんでオシッコし始めたんだよ。田舎のクセが出たんだなぁ、神戸だぜ、あんときゃアセったぜぇ」 「アセったといえばよ、生まれてすぐで、まだ首も据わっていないおまえに、父ちゃん、ビールをちょこっと飲ませたことがあるんだよ、したらおまえ、真っ赤になってな、泡を吹いたんだよ。あわてておまえを取り上げた産婆さん呼んだら飛んできてな、こっぴどく叱られてなあ、その晩はおまえを、返してもらえなかったよ」 …………。 4つのぼくも、男同士の会話に応えようと思って、たとえばこんなふうに話しかけるのだった。 ——かあちゃんの作るいかげその天ぷらは、なんであんなにおいしいんだろうね。 親父は応える。 「そいつはおれも同感だな。湯豆腐も捨てたもんじゃないよな。あとは、……あまり感心できないけどなぁ」 そういう会話を重ねていると、浜国道にさしかかる。4車線で交通量が多く、親父はぼくを肩から降ろし、ぼくの手をぎゅっと握り、注意深く国道を渡る。 そこからは親父の大きな背中を見上げながら歩く。 やがて重油の臭いがしてくる。倉庫街の、港湾域に入ったのだ。生の牛皮を保管していて、ひどい悪臭のする倉庫の横を小走りに駆け抜けると、そこが摩耶埠頭だ。 日没直後で、海面はまだ、かすかに明るい。当時の神戸港にはまだ、水上生活者が沢山いた。ハシケと呼ばれる小型船で、荷役や小回りの利かない大型船の牽引をし、船を寝食の場ともするのだ。 その狭くて不潔な甲板で煮炊きをしている親子を指さして、ぼくは親父に言ったことがある。 ——ああいうのいいね。 親父はゲンコでぼくの頭をこちんと叩き、寂しそうな、複雑な表情をした。 |
安月給だった親父にとっては、ぼくの言葉がわかったふうに聞こえて、やりきれなかったのかも知れない。 違うんだよ親父、ぼくはあんなふうに、親父と、遊んでみたかったんだよ。 あたりが暗くなると、親父は歩き疲れたぼくを抱き上げて、赤く錆びたアンカーに座らせた。 ふたりの会話は終わらなかった。 たいていはぼくが質問攻めにした。 4つ5つの男の子は、世の中が不思議でたまらず、親を質問攻めにするものだ。 なぜネオンは点滅するのか? 日本が昼のとき、アメリカも昼なのか? なぜ女の子は優しくて穏やかなのか? いま思うと骨が折れたと思う。親父は少しも厭うことなく教えてくれた。 「いいところに気づいたね」 といういつもの言葉に続き、自分の持つ知識で、ぼくをミスリードしないよう慎重に答え、その答えに対する質問にも答え、ようやく納得した様子を見せると、その大きな手でぼくの頭をごしごしと撫で、 「またひとつ賢くなったね」と褒めてくれるのだった。 (すみませんお父さん。ぼくはそう賢くなりませんでした) すでに海は漆黒。 だがぼくは海の方ばかり見て、山を振り返らない。山を振り返るということは、帰途につくことなのだ。 帰りたくない。もっと、親父と、海にいたかった。 どうしても思いだせない。 親父はいつも決まった詰まらない冗談を言い、それが「そろそろ帰るか」という合図だった。 ぼくは意を決して振り返る。 降るような星空があった。 六甲の麓の街の灯が、降って積もった星くずのように見えた。 design by Akito → download to read |