…………… 福井コンピュータPR誌 "CYBER ARCHITECT" あえて超アナログな小特集 1996 ……………

humanature           
一生もの"体験”

樹に抱きついて瞑想したり、落ち葉に埋もれて深呼吸することが
ヒューマンネイチャーなのではない。
ジェットスキーを使ってでも、未知のサイズの波に乗ったり、
酸素ボンベを使ってでも、未知の呼吸や視覚に出会うことが
ヒューマンネイチャーなのだ。
ジンルイはそのように、進化してきたのだ。

humanature-2.jpgfoto by Taroh Tamai

physical reality
視覚のむこうにあるもの


うまれて初めて、
自転車に乗れた瞬間を、
覚えているかな?
おおげさに言えば、
あなたはそのとき、
重力と速度を、
みずからバランスさせた、
未知の時空間にいたのだ。

うまれて初めて、
波にのった瞬間を
覚えているかな?
おおげさに言えば、
あなたはそのとき、
いつもの時間と
重力場から、
ワープしたのだ。

ジンセイの目的ってきっと、
そういう未知、を、
どれくらい体験できたか、って
ことなんだとおもう。
その最高の手段が、
ネイチャー・スポーツなのだ。

脳がある感覚をオフするのは、
別の感覚に集中するためだ。
嗅覚はすぐばかになる。
聴覚は倦みやすい。
空調が完璧なら、
皮膚感覚を忘れてしまう。
けれど視覚は、最後まで活きのこる。

樹や岩が露出した急斜面では、
アドレナリンによって
視覚が総動員されるけれど、
スノーボードで、
オープンワイドでメロウな、
パウダーを滑るとわかる。

スノーボードはスキーより
ソール面積が広いから、
パウダーから浮力を得やすい。
ボードにサイドウェイスタンスし、
トゥサイド(ツマ先側のターン)と
ヒールサイド(同・カカト)をつなぐから、
視界も、スキーとはちがう。
ストックはなく、運動も、
プリミティブだ。
稜線の影が斜面に落ちていたら、
光と影を捷うようにトラックを描く。
パウダーは純白で、
反射成分も交じるから、
そのコントラストは強烈だ。
影のなかではなにも見えない。
スプレーが飛んでいるのは分かるが、
スプレーはみえない。
日なたにとびだした瞬間、じぶんと
スプレーの影がぶわっとのびる、
が、見えるのは、スプレーそのもの
ではなく、スプレーの影だ。
影にはいった瞬間、
スプレーもまた、影にとりこまれる。
超視覚体験だ。
しかしそれも長くはつづかない。
視覚がコントラストを追うのに疲れ、
なにかはみえているのだが、
それはいつもの視覚ではなく、
カラダはすでになく、ゴーストだけが
ボードに乗って移動しているようで、
あれ、おれっていま、夢みてんだっけ?
と、錯覚してしまうのだ。
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humanature-4.jpgfoto by Iwana Akizuki

"あうとどあらいぶ" が楽しいのは、
それが「割りのいい取引き」だからだ。
毛鈎で、イワナを釣らずに
死ぬのは損である


■ その功罪はさておき、2億円かければ、渓流にユンボを入れて、万年スパンの地殻変動や、千年の光合成や、百年の出水などを経て、自然、が造形したそれを半年でリセットし、砂防堰堤を築くことはできる。
けれど、2000億円かけても、その造形を、いわんや生態系を、再生することはできない。
たとえば中央高速に5000円ぶん乗り、800円の日釣り券を買うだけで、多少ニンゲンの手は入っているけれど、奥飛騨双六谷というスーパーネイチャーで、ブナやミズナラがいま生んだばかりの酸素を胸いっぱい吸い込みながら、揚羽蝶が舞う林道を歩き、立ち木やツルや岩を手掛かりにして、沢に沿った踏み跡を辿って渓に降り、目が痛むほど透き通った水を徒渉し、家ほどもある大岩を抱いて攣じ、ひょっとしたら熊がでるんじゃねえかと脅えながら、ホトトギスやオオルリのBGMつきでイワナを釣り、いちにち遊ぶことができる。
渓にいる時間のすべてが素敵だ。
たとえ雨でも、釣れなくても、辛くても。

“あうとどあ・らいふ" が楽しいのは、それが「割りのいい取引き」だからだ。
千葉のザウス人工スキー場や、ワイルドブルー横浜の、自然のそれに較べてひどく貧しい斜面や波で遊ぶため、いくら払わねばならないか知ってますか?
詭弁ではない。わたしは、場末の焼き鳥屋でも、おかみさんの人柄が好ましいとか、ひとクシ90円なのにナンコツが堅すぎないとか、コストパフォーマンスが高ければ、偉そうにしないとか、テーブルを汚さないとか、大事にする。自然、も同じだ。
ヒステリックなエココンシャスより、そういう考えかたのほうがずっと実効性がある。

穂高連峰を源流とし、神通川として日本海にそそぐ高原川に、わたしは好きでよく釣行する(双六谷はその支流だ)。
本流は岐阜県、高山市と富山市を結ぶ国道41号線に沿っている。
今年4月の、ゆきしろ(雪解け)前には、地元のルアー師が朝のマズメだけで57cmを頭に18尾の尺上イワナを上げたのだが、内水面漁協による放流も潤沢で、いいイワナとアマゴが釣れる。
釣れるだけではなく、もちろん場所によってはだけど、自然も残っている。
奇岩に旧い松が生え、中洲に雑木林、国道から重量制限2トンの橋を渡った対岸の、胸までの笹をこいでポイントに向かっていたらとつぜん右斜め前方20mの笹が揺れて倒れ、わ、熊かと硬直したが、笹を抜けたそいつはつがいのカモシカだった。
翌年(今年だ)、その周辺は一変していた。
渓畔林は消え、奇岩は砕かれ砂利になり、敷き延べられ、瀬と淵は埼玉県の釣り堀みたいなプールになっていた。
漁協が、もっと魅力的な川にして釣り人を増やそうとプールにした、と、ある人に開いた。
さいきんはルアーフライが女性にも人気らしい、木を伐って岩を砕き、ブルで河原を慣らしたら、足場が良くなっで快適だから、うちの川にもっと釣り人が釆てくれるだろうと、本気で考えてそうしたのさ、と、彼は呆れたように、言うのだった。
むろんコトはそう単純ではないだろうが、生まれてから55年間その川の流れとともに育ち、釣りをしてきた彼のいうことだから、一面の真相を衝いているのだろう。
ダムに代表される利水治水事業は、割りのいい、費用対効果の高い、自然を破壊しても釣りがくる、ものだと信じたいが、現実には、笑い話ではない、日本の、あらゆる渓流でそんな「英断」が成されているのである。

はなしが逸れた。
一生モノ“体験"だ。
渓流でイワナを釣らずに死ぬのはなぜ損か、というはなしである。
わたしが初めてイワナを釣ったのは92年の夏、その高原川最上流、乗鞍岳登山口ちかくを流れる平湯川だ。
かねてより熱心なイワナ釣り師だった友人から、その興奮をさんざん聞かされてその気になり、釣り具やウェイダーー式をそろえたのだった。
テントを張り終えると、かすかな瀬音が聞こえた。深い熊笹を分けて沢に降りた。100m毎の堰堤に刻まれて落差を喪い、3歩で渡れるような細流で、渓魚がいるかどうかもわからなかった。
ものは試し、と、友人は90cmの長さの、目印とオモリとハリスと鈎だけの仕掛けをつくり、バイオちゃん(養殖ぶどう虫=蛾の幼虫)をつけてくれ、イワナは臆病で、ヒトに気づくとびゅっと逃げて食わないんだよ、と耳元でささやいた。
中腰で、静かにあの淵に近づき、淵のうえの枝にからめないように、餌をそっと落とし、糸を張ったまま、水と同じ速さで流せ、と。
背後のブッシュに隠れている友を振り返る、かれはうなずき、声をださず、そこ、と目と指でポイントをしめす。
淵、といっても幅はひとひろしかない。
そっと餌を落とす、目印!?、振り返る、「合わせろ!」とジェスチャー、生命! 逸走、感電、
そいつが奔るのに慌て竿を立てると渓を覆う木立に穂先があたり絡みそうになる、左右も枝、友人を振り返る、竿を仕舞えとジェスチャー、540cmの竿に90cmの仕掛けの「提灯釣り」なので、取り込むためには竿を一節づつ仕舞わねばならないのだがそんなことは知らない、いま考えるとイワナはすでに鈎掛かりしているわけだから声をだしてもいいはずなのに大慌てでジェスチャー、
朱? 金? そいつは水面で一滴の光として弾け、弾けた水玉の後光、振り返る、友はうんうんうんと激しく頷く、気づくとその命はわたしの足元でエラを開いたり閉じたりしている、そのうえに影、振り向くと友、
「…………!」
「イワナだよ」
「イワナ!?」
「放流モノじゃないよ、9寸はある」
わたしは、まだ息をしているその魚が、イワナだとは知らなかった。
わたしは何も知らなかった。
熊笹を分け、倒木にむした苔を踏んで、人が余り入らないような沢に降りたのも初めてだった(その周辺は、釣り場としては無視されていて、放流も成されていなかった)。
渓流の水は、真夏でも手を切るほど冷たいことも知らなかった。
たぶん幼児だったころはそういうことの連続だったのだろうが、あんなに無心に、驚きをもって、あるものを見、こころを奪われたことはなかった。
イワナをつかんだ手を嗅ぐと血の匂いがした。
口の中を切ったときの匂い、あるいは健康な女性器の。
出来過ぎだった。
わたしは生涯の第1投目で、野生の、26.5cmのイワナを釣ってしまった。
藤原新也的ペシミズムによれば、わたしはその瞬間、不幸を抱え込んでしまったのだった。
2匹目のイワナは、「あ、イワナね」と、あんな、赤子のような無心さをもって見つめることはないだろう。
それ以上の「体験」を得ることはひどく困難であろう……。

なぜ、湖ではなく、海ではなく、渓流でイワナを釣ることが「一生モノ体験」なのか。
わたしの、ひどい偏見によって説明する。
まず、イワナやヤマメは美しい。海の魚やフナのように生臭くなく、香りさえある。
次に、海や湖の釣りは相手が単に「水」で、波や潮流や潮の干満などがあるものの、変化に乏しい。乱暴に言えば、どこも同じだ。
渓流は、水であると同時に「山」であり、流れがあり、それは谿のテレイン(地形)を映して、ひとつひとつが違う。瀬や淵や、ゆきしろや渇水で、流れは複雑に反転したり神経質にゆたったりし、さらに水深や沈石といった深度軸が無限のオプションを生む。
乗合い船の海釣りは、船頭にポイントに連れていってもらい、タナや餌まで選んでもらう。
哲学や美学や行動の多くを船頭に預けてしようわけだ。
渓流釣りは、基本的に単独行であり、水量や季節やかれらの餌となる虫やアユの稚魚などの生態を読み、ひとりですべて決定しなければならない「狩猟」である。
最近はそういうシゼンよりも、先行者の有無とか、大多数が狙わないポイントを探すとか、ヒトを読むことのほうが重要なのだが、ま、それも器量のうちだ。
釣りは人間と魚のフェアな化かしあい、と言った作家がいるが、フェアじやない、魚は死ぬが人間は死なない。けれど渓流釣りは、鉄砲水や落石や滑落やヒルやアブやマムシやウルシや、こちらが負うリスクが比較的おおきい。

奇跡のようにイワナが水面を割る、
麻薬がどばっと分泌され、視力が回復し、 
瀬音が思いだしたように鼓膜を搏ち、
四肢に力が漲り、鼻息が荒くなる

わたしは釣りを仕事にしているわけではないから、快感さえ得られば良い。
初体験で絶項感を得てしまった不幸なわたしは、釣法によって、2度目の「一生モノ体験」を求めた。
毛鈎、
とは言えフライフィッシングではなく、日本の伝統釣法であるテンカラだ。フライのようにリールは使わず、3から4mの延べ竿に、それより釣り人のリーチぶん長い、バス(馬素。むかしは馬の尻尾の毛を経ってっくったのでこの名がある)と呼ばれるテーパーラインをつけ、その先に伝承毛鈎を結び、ムチのようにキャストして食わせる。
なぜフライではなくテンカラか?──これもひどい偏見で、フライの洗練や複雑さは理解してしているつもりなんだけど──フライは、“must"の釣りなのだ。
そのときハッチしている虫に似せたサイズと形態のフライを使用せねばならない(マッチザハッチ)、糸がついていない虫が流れるように、自然にフライを流し(ナチュラルドリフト)、ドラックをかけてはならない。
さらに、英国貴族が生んだ遊びだから、フライフィツシャーたるもの紳士でなければならない(みたいな空気がある)。
我が祖国のテンカラはうるさいことは言わない。キャップより麦ワラ帽、足袋にワラジがいちばん、本当に足袋にワラジの人はいないけれど、柄は悪くても品がよけりゃいいのだ。
毛鈎は、フライフィシンクやのイミテーション(虫そっくり)に対し、ファンシー(適当)、長い時間鱒に見せると偽物だとバレるので、もちろん西洋毛鈎を使っても大いに結構なのだけれど、ファンシーゆえフライのように長く流すことはできず、キャスト後数十cm流しただけでピックアップ、打っては返し、打っては返す。
毛鈎を、あくまで自然に流し、鱒が食うのを待つフライに対してテンカラは、毛鈎を震わせたり逆引きしたりして鱒を誘うのもアリで、つまりまぐれで釣れても、腕のせいにできる。
リールがないため、竿とラインはただの鞭、木立が流れに迫りがちで、バックキャストスペースをとりにくい日本の渓相にも合っており、堅く短いリール竿ではなく、柔らかく長めの延べ竿を使うので、イワナと引き合っているときの感電も素敵である。
餌釣りは、イマジネーションの釣りである。変化した目印が結ばれた糸の、水面下のその先のサカナを読み、即合わせるか、合わせを待つかイマジネー卜する。その時間がハイライトなのだ。
一般に毛鈎を沈めないテンカラは、あたりまえだが水面で食わせる。電光石火で毛鈎をひったくるヤマメや、食うか止めるか、ためらいがちみに毛鈎を追うイワナが視える。
合うかバレるか瞬間勝負、だからって、イマジネーションが不要ってわけじやない。イマジネーションのクライマックスが、鈎掛かりなのだ。
君、テンカラで、1尾のイワナを釣ることなく、死にたもうことなかれ。
けれど、
釣りをするひとなら頷いてもらえるだろう、釣りは、つらいことのほうが多いのだ。
アタリはなく、雨は止まず、川はますます濁り、カラダは冷え、アタリはなく、キャスティングもぞんざいになり、あと一投でやめよう、温泉に入ってビールを飲もう、あと一投でやめよう、と決心を重ねながら止められず、アタリはなく、遡行する足はますます重く、集中力はとうになく、生活の、厭な悩みが浮かんでは消え、
と、奇跡のようにイワナが水面を割り、脳内麻薬がどばっと分泌され、悲観や悩みはけし飛び、視力が回復し、四肢に力が漲り、鼻息が荒くなる。


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humanature-6.jpgfoto by TAKI + Taroh Tamai
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タイムマシンは「時間」を、
スノーボードは「重力」を
あつかうノリモノだ


わたしは、わたくしが、わたしに、もたらしてくれるかも知れない、未知の「体験」に出会いたいだけなのだ。
スポーツも、もちろんその手段である。
スノーボードがいい。
完全な健康とは、カラダを全く意識しないですむことだ。歯や胃が痛くなったら、歯や胃のことばかり気になってカラダの奴隷になる。
スポーツも同じで、カラダの存在を忘れている、あるいは、カラダが意識の檻から放たれ、無意識的に動いているとき、キモチがいい。
たとえばスキーで、膝が突っ張って後傾が直らないと、ちくしょうこの膝、と膝のことばかり気になってカラダ地獄に墜ちる。
病気に似ているのだ。
カラダばかりではない。
「あのアイスバーンでコケたら骨折するんじやねえか?」
「リフトのあの娘にカッコ悪い滑りを見せたくはない」
「はいここでヒザを曲げて、もっと重心を低く」、なんて言葉が現実の運動に間に合うわけがない。言葉と運動は相いれず、言語意識はほとんど自分自身だから厄介で、それがいつも運動をぎくしゃくさせてしまう。
さらに言えば、スポーツは、意識と筋肉のリハビリみたいなところがある。
テニスで、気持ちはそのボールに追いついて、鮮やかなバックハンドドライブで返球しているのに、現実のカラダは追いつかない。
スポーツとは、意識と筋肉の乖離をすこしづつ改善し、同調させてゆく、リハビリ的行為ともいえる。
その本質的な目的は、こころと、左脳的言語意識ではない、士郎正宗的にいえば “ゴースト"と、カラダの、完全なるシンクロではないか。
「カラダで覚える」ことは、脳のどこかに、あたらしい回路をつくることで、脳は脊髄を含む神経系すべて、つまりカラダそのものであるとも言えるから、右脳運動系、みたいな言葉で片付けるのは安易だけれど、言語脳を眠らせた、いわゆる "ハイ"な状態、その境地に達して初めて、運動の、本当の意味での上達や快感が得られる。
スポーツという、うえの意味で享楽的な運動を、突き詰めてゆくと舞踏になる。
クラブで、「おれの踊りってブサイクだなあ」と意識しているうちは実際に踊りもぎくしゃくして楽しめない、
けれど、なんらかの拍子でそういう意識が飛ぶと陶酔して、本人も気持ちいいし、カラダも勝手に動く。スポーツがなかった太古のヒトは、だから焚き火の回りで踊って、その種の快感を得ようとしたのだろう。
スノーボーディングは、ダンスに似ている。
ダンスは、音楽が必要なだけで、なにも道具を使わない。スノーボードも、ストックを使わず両腕がフリーで、
足はパインデイングで拘束されるが、少なくともスキーよりプリミティブで舞踏的だ。
上手な人が滑っていると、気持ちよさそうに踊っているように見える。
サーフィンは足も手も拘束されないが、上のような快感を得るのはかなりの体力や習練が必要で、相手が雪ではなく水なのでカーヴイングが難しく遠心力を得にくい。
スノーボーディングは比較的上達が早いスポーツで、そのソール面積によりパウダーで浮力を得やすく、たとえば56→57ページに書いたような「一生モノ体験」を得やすい。
スキーは、両手両足が道具に縛られるため、上達し、快感を得るためには、ボーゲン→シュテム→パラレルのヒエラルキーに代表される教科書的セオリーがどうしても有用になる。
さらにスキーは基本的に両足が揃った、どすこいスタンスなので、ターンが左右対称で、エッジが2本あり、踏み代えることで遠心力をラクにリリースすることができるが、スノーボードは──スキーより不器用だとも言えるのだが──エッジが1本で、それがズレたり吹き飛ぶまで遠心力に乗り続けるしかない。
シンプルで、フィジカルだ。
レギュラー(左足が前)、あるいはグーフィーで横乗りし、スタンス(両足の間隔)やアングル(同角度)も個人的で、ターンもトウサイド、ヒールサイドと非対称になり、そこに、利き脚はどちらかという肉体性と繊細さが同居し、舞踏的創造性がうまれる。
さらに言えば、スキーは移動の手段として生まれ、スノーボードは最初から遊びの手段としてうまれた。生まれつき、スピードや効率よりも、キモチよさを優先している。

過重力と無重力とを往復しながら
つまりじぶんを振幅させながら、
少しづつ、天国へと、降りてゆくのだ。


スノーボードやサーフィンやスケートボードなど、1枚の板に横乗りするスポーツの快感のコアは、遠心力に乗ることにあるとおもう。
けれど、それに乗り続けることはできない。
メリーゴーランドや、クルマやバイクならステアリングを切ったままアクセリングしてずっと遠心力に乗ることができるが、フィジカルなボードスポーツでは、ターン(遠心力)とターンをトランジションによってつながねばならない。
トランジションは抜重というとおり、無重力である。遠心力とはつまり過重力だ。
ターンを重ねるのは、過重力、無重力、過重力をつないでゆくことであり、正確には、遠心力ではなく、重力差に乗ることだ。
上達すればエアターンして、無重力どころか反重力でトランジションし、よりおおきい重力差に乗ることができる。
重力は、ニンゲンにとって、空気のように普遍的なものだが、スノーボードすることによって、わずかではあるけれど、その普遍を操作して、遊ぶことができる。
筋肉とゴーストとをシンクロさせる舞踏に、速度と重力という次元をくわえることによって、
「永遠に続く現在という牢獄」とか、
「生まれてから一度もこのカラダから出たことのない憂鬱」みたいな束縛からつかのま、自由になることができる。
重力の針を、プラス、マイナス、と振りながら、つまりじぶんを、プラス、マイナス、と振幅させながら、少しづつ、天国へと、降りてゆくのだ。

感覚が遮断された状態で、脳が「起きて」いると、脳は混乱して、勝手にいろんな物語りを紡ぎはじめる、と、ある本で読んだ。
ー時アメリカで流行したメディテーション・カブセル──比重が人体のそれよりおおきい液体を満たした蓋付きプール──に入ると、液体の表面にカラダがぶかりと浮いてしまうから、筋肉や関節のストレス、つまり重力から解放され、蓋を閉めると真暗で無音、無臭だから、視覚や聴覚や、感覚のほとんどが遮断され、脳へのインプットがゼロに近くなる。いわばカラダはなくなって、意識だけの存在に近くなってしまう。
通常のわれわれは、瞬時も途切れない感覚入力を脳が逐次処理することで成り立っているから、脳は混乱して、やがて記憶とか、潜在意識下にあるなにかを引き出し、インプットゼロの代償として──変ないいかただけど-──脳内バーチャルリアリティ的幻覚をつくる。
夢もそうだ。夢は、REM睡眠、カラダが眠って脳が起きている状態で、インプットゼロの代償として脳がつくりだす幻覚だから、あのように荒唐無稽で非言語的なのだ、という説がある。
スポーツはその、カラダを忘れ、日常は意識されない意識、ゴースト、に出会うためのアプローチが、フロートチューブや夢とは正反対で、風や遠心力や速度などによる感覚情報を、日常的には考えられない質量で過入力することにより、そこに至るのだろう。

ピークに立ってバインディングを留め、斜面を見下ろす。自分には急すぎて、怖い、が、意識にもルーティンがあって、ある瞬間、積極的な気持ちにスイッチできる、ソールで雪を蹴りドロップ、エッジがスライドし、スライドしたエッジをグリップさせようとして態勢が崩れ、背骨と骨盤の取りつけがズレてしまつたように頼りなく、アタマとカラダが分離して腿が張り、呼吸が乱れ鼓動が昂じ全身が心臓になったような気がする。
つらいつらいストップしようとカラダが訴え、ダメだダメだもう少しだとアタマが励ます、つらいつらいストップしよう、ダメだダメだもう少しだ、その葛藤を繰り返すうち疲れてくる。カラダではなくアタマが疲れてくる。疲れて意識が遠のきぐらぐらし覚めるように気づくとボードが勝手に走っている。
すでに意志はなく、なにものかが自動操縦しているようにターンとターンを重ねてゆく。
カラダがアタマを追い越してカラダが勝手に滑っている。すでに腿の張りはなく、呼吸も鼓動も鎮まっていることに気づく。
なにも聞こえず、なにかは見えているのだがそれはいつもの視覚ではない。
すでにカラダもなく、ゴーストだけがボードにのって移動している。
あれ、おれっていま、夢をみてんだっけ?