
製品が見えない ■本社総務部で、広報、広告、秘書、株式を担当。人材確保の危機感から、91年、本格的に始動した企業広告プロジェクトを指揮、成功に導く。 「ナカハムラタデスカ」や「未来へ行ってきます」 などのキャッチフレーズで知られる、村田製作所の 企業広告は、困難とされるBtoB企業ブランディング の希有な成功事例と評価され、事実、認知度、就職 意向などの各指標を大幅に向上させている。 同社の製品は電子機器に内蔵される電子部品で、 一般の目にはまず触れない。広告担当の大島氏が、 BtoBというより、 "Factory to Factory"企業で あると称するゆえんだが、この、より困難な条件下、 同社はいかに、ブランディングを成功させたのか。 ■まず、当社の概略と特異性から。 村田製作所は一九四四年創業、昨年暮れ、創業六〇周年を迎えた。主力はセラミック製の電子部品で、携帯電話、パソコン、映像機器、自動車等の電子機器に供されている。例えば、チップ積層セラミックコンデンサという製品は携帯電話用で、一台当たり二百個程度使用され、世界シェアの三五から四〇%を占有している。 当社商品の特徴は、一般ユーザーからは全く「見えない」ことにある。 当社と同じく、BtoBといわれる企業、たとえばオフコンやコピー機などの事務機メーカーであれば、クライアントのオフィスにブランドが存在して、目に見え、商品広告も成立する。 ところが当社の場合、工場で作った部品を直接、顧客の工場に納品するわけで、(私の造語であるが)、FtoF、Factory to Factory、とも言え、当社の社員ですら──とくに事務系の女子社員など──自社がどういう製品を作っているのか、よくは知らない者が多数いる。いわんや直接担当者以外のクライアントや、一般の方においてをや、という事情がある。この特異性により、当社のこの一五年間の広報・広告活動の目的は、商品広告が成立しない状況下、いかに会社の知名度を上げ、ブランディングを実現してゆくか、という点にあった。 平成元年に至るまで、当社の広報・広告活動はほぼ直接的な販売促進のみに限られた。具体的には、重点市場対応部品の技術的優位性を、工業紙や専門紙上で広告することのみに留まっていた。 企業広報そのものが当時はそれほど盛んではなく、売り上げに結びつかない広告は意味がないという風潮も手伝い、企業広告を含む、一般社会へのアピールはほぼ皆無であった。 当社が方針を変えたのは、採用面での力不足に危機感を感じたからであった。 バブル期の最後期であった一九八九年(平成元年)当時、理工系学生のメーカー離れが深刻になり、当社の知名度不足もあいまって苦戦を強いられた。当時、社名をカタカナに変えるなどCI活動が盛んであったが、そういう活動もしていない。このまま採用面で遅れを取り続けると、五年後、一〇年後、軽くないダメージを被るのではという非常な不安があった。知名度不足はさらに、エレクトロニクス産業拡大に伴う、当社の販路拡大の足かせになると予想された。加え、社内的には、創業五〇年と社長交代を控え、変わらねばならない、活性化せねばならないという気運が高まっていた。そのこともあいまって、企業広告、企業広報の実行へと進んだのである。 |
ゼロからのスタート 守りの広報から、攻めの広告へ しかし、それは、何もないところから始めねばならなかった。 まず、"Factory to Factory"企業において、どう広告をし、ブランディングを実現するかという先例、ノウハウ、理論書が皆無であった。一般に対して広告する意味があるのかという疑問が根強くあり、全社的なコンセンサスが得られていない。商品を売るわけじゃないから広告予算もない。そもそも、専門的な電子部品メーカーが、一般に向けて、何を広告し、何をもって広告効果があったかと評価する尺度がない。反面、期待は明確であった。先述した、優秀かつ多様な学生の採用である。 まず、広告ではなく、広報に着手した。予算三千万円では、広告しようにも、物理的に何ほどのこともできないという事情もあった。具体的には、就職を控えた学生や転職を考えている青年層、およびその周囲に影響力のある媒体──日本経済新聞──に対し、頻繁な情報発信、取材受け入れ等を行った。記事になりうる情報の提供に腐心し、奏功して記事となれば、村田製作所という名が紙上で露出し、一種の広告となる。 その方法でしばらく広報に依存していたが、限界が見えてきた。 つまり、村田製作所について、いくら良い記事が書かれていても、読者が当社に関心がなければ結局届かないのではないか、という疑問。さらに、広告イメージの良い企業は、知名度と関心、企業イメージが高まり、就職意向も高まるであろうと考えられた。実際、ある意識調査に、学生に最も人気があるのは「知名度が高くてイメージが良い」企業という結果がある。その実現のためには、受け身の広報だけではなく、攻めの広告も必要だと気づいたわけである。 本格広告展開の模索。いきなり 立ちふさがる三つのハードル ではいかなる広告を展開してゆくのか? この時点で、社の知名度は、低いどころか、一般にはその存在すらほとんど知られていない。そのうえ、三つの初期設定条件があった。 第一に、一般向けの商品が無いため、商品広告ができない。つまり、商品広告と絡めた企業広告という常套手段が使えない。 第二に、表現の難しさ。製品が見えず、分からず、馴染みがない。その種のメーカーの広告として、どういう表現をするのか。独りよがりの、届かない広告に堕しはしないか、という危惧。 第三に、この企業広告によって、売り上げや利益が伸びるといった成果は見えないゆえに、結果に直接つながらないものに予算はつけないという社内的ハードルを越えねばならぬこと。 広告効果目標も同様に三つあった。 第一に、繰り返しになるが、優秀で多様な人材の採用。第二に、社内的活性化。第三に異業種・未開拓市場へのアピール。 採用が主たる目的で、以下は付随的なものである。採用が実現すれば、他もそれに倣うとの目算があった。 八九年、製品が露出しないという意味で、当社従来のそれからすれば実験的な広告を出稿。それが社内で一定の支持を得たことに意を強くし、九一年、本格的な企業広告の製作に取りかかった。予算は三億、新聞広告と、テレビCMである。媒体は、新聞が、前述の広報との相乗効果も期待し、日本経済新聞を中心に。テレビは、提供ではなくスポットCMとし、主たる訴求対象である学生が見る時間帯と、(時間帯によって異なる)単価をにらんで決定した。 訴求内容は、絞り込んでシンプルに。 まず、「ムラタセイサクショ」という名をしっかり言おう。 次に、「メーカーである」ことを言おう。メーカー離れが云われた当時、あえてそう謳うことで、技術指向の会社であることアピールしよう。 |
さらに、「エレクトロニクス企業である」と言おう。成長産業ゆえ、当社の将来性も感じていただけるだろう。 表現としては、わかりやすく、驚きと共感を与え、品性良く、を心がけた。 結果、「村田製作所はナニをセイサクしているんだろう」というキャッチフレーズの一連の広告が完成した。テレビCMは、銀座の電光掲示板に、このキャッチフレーズが下からゆっくり表示され、通行人がたどたどしく読むという内容である。 社内的には(予想通り)二通りの反響が出た。東京の社員は評価。しかし北陸の工場に勤める社員は猛反対。広報でつきあいのあった新聞記者に、「村田製作所のようなFtoF企業が企業広告を打つ時代になった。新しい胎動である」という論旨の記事を書いてもらい、それをコピーして社内に配ると、批判の声がピタッと止んだ。外部からも、音楽も無く、映像も日常的、文字が主人公というこの広告は、非常に斬新であると高く評価された。 実際、会社訪問の資料請求が十倍増。日経のイメージ調査の各指標も急速に伸びた(詳細は後述)。そのような「結果」も手伝い、企業広告することへの、全社的な同意、好感を得たのである。 「ナカハムラタデスカ」から 「未来へ行ってきます」へ 「ナニをセイサクしているんだろう」で、メーカーであることを伝えた。次のステップとして、村田製作所は、電子機器に内蔵される 電子部品を作っているんですよと伝えたい。九四年、完成したのが、「ナカハムラタデスカ」というキャッチフレーズ。 九八年の「恋する部品製作所」は、電子機器と、電子機器中のムラタという二極対立性を薄め、(電子機器の中にいるムラタが)ユーザーに直接話しかけるというビジュアルによって親密さを狙った。 これら数年間の企業広告により、村田製作所の認知度が上がったので、以降は、電子機器から脱却し、ムラタがいわば人格を持って、社会に対してのメッセージしてゆくという方針に。九/一一テロの〇一年には、「がんばれ世界」。「新鮮部品製作」、「魔法で世界は変わらない」、「技術大(好き)国になろう」と続き、〇三年暮れから〇四年にかけては「未来へ行ってきます」。 以上一連の広告による企業評価改善データについて言えば、九一年夏のテレビスポット開始後、九二年には、知名度、認知度(業務内容も知っている)、就職意向とも、二倍からそれ以上に増加。九一年には当社を全く知らないという人が一五%ほどいたが、〇三年には四.五%に減少している。 費用対効果で考えると、この一五年間、比較的効率的な企業広報・広告を展開できたと自負している。以下、その要因を自答する。 まず、トップの決意が揺るがず、安定継続して予算がとれたこと。 社内スタッフ、社外の広告代理店、クリエイターとも、顔ぶれをあまり変えず、中長期的なビジョンを持って製作に取り組んだこと。 低予算であることが結果的に奏功したのだが、訴求と対象を絞り、集中したこと。つまり、就職活動開始間近の学生をターゲットに、一貫して「ムラタセイサクショ+エレクトロニクス(部品)+メーカー」とだけ訴え続けてきたこと。出稿時期的にも短期集中型で、テレビスポットは東京と大阪のみ流した。 現在も途上であるが、この一五年を振り返って強く感じることは、逆説的な意味ではなく、「広告の限界」である。 広告には、人を玄関先まで連れて来る力はある。しかし家に入って実態が伴わなければ、広告に期待した効果も霧消してしまう。 広告で、嘘をついてはいけない。マスコミがスポットを当てたい部分が広報とすれば、我々がスポットを当てたい部分が広告であり、何れにしろ実態を言うしかない。その意味では、一連の広報・広告活動の一定の成功の、もっとも大きな要因は、当社が安定した業績を保ち続けたことにあると考えている。 |
TOKO付記:
■この、私論・異論・極論カテゴリーとは対極にある仕事なので、あえて掲載した。 かつて季刊で、実験的(?)に出版された経済誌 "日経ブランディング"誌上で、経済学の高名な教授や、一流企業トップの、 |
講演やインタビューの速記録を、分かりやすく簡潔に、見出しやリードをつけ、指定のページ数の記事にまとめるというもの。 TOKO自身は経済には暗いが──ライターとして、マネーとラヴ&セックスは専門外としており(泣)──速記録を読むと、なにがキーワードか、 |
要するに何を言えばいいか、は明快に分かるので、専門用語などを調べ、確認し、仕上げ、納品する。 その原稿は、経済や校閲の専門家によって複数回校閲され、誌面になる。 掲載したのは、その(決定稿ではなく)TOKO納品稿である。 |