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bts0504_ura-1.jpg■佐久間浩氏お手製の「海の遊び小屋・南棟」30-33ページに関連記事
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bts0504_ura-2.jpg■逗子駅前の不動産店店主・佐久間浩氏は、さいきん多忙であまり海に出られなくなった。すると夢想の密度が濃くなった。
フィジカルなサーフィンができなくなった氏の脳は、バーチャルなそれを行うことで
帳尻を合わせようとした。出力したらこうなった
葉山のゲージツ的生活者・佐久間浩さん          

だからここは別荘じゃ
なくて小屋なンだよ。海の
遊び小屋。食う、寝る、遊ぶ、
そういう日常の一部さ。

■ 人間の不幸はおよそ、相対性による。
どんなに年収が高くても、もっと高い人はいるし、どんな美人の奥様がいても、もっと美人の奥様はいる。相対性には出口がない。どんなに美しく、才能にあふれて、裕福であっても、相対性にとらわれた人はあまり魅力的ではない。夢や理想を語る人はいっけん清々しいが、じつは相対性の海でもがいてるに過ぎないことが少なくないものだ。
ロビー・ナッシュや、レアード・ハミルトンを取材して感じることは、かれらが、何らかの絶対性を獲得していることだ。かれらは、誰かより優れているから魅力的なのではなく、ロビーであり、レアードであることがチャーミングなのだ。
絶対性を得ている人は、サーフチャンピオンに限らず、市井にもいる。彼らは、夢や理想ではなく、「生活」を実現している。
JR横須賀線逗子駅前の不動産店主、佐久間浩さんもそんな一人である。
(そして、60ページからの、材木座の三木さんや大磯の坂田さんも)

佐久間さんは、昭和29年、葉山に生まれ、この地で育った、生粋の葉山っ子である。
葉山が素敵なのは、きれいな海と、山があり、町は鄙びて、昭和の匂いを今なお残しているところだ。
少年時代は、小学校の先生が、潜り方や山芋の堀り方を教えてくれた。先生も偉い。教科書よりも自然のなかに、学ぶべきものがあることを知っていた。
「昭和27年から10年ほど、親が、森戸で海の家をやってたんですよ。当時はすごい賑わいでね。飛び込み台がふたつあって、夕方、友だちと潜ると、100円、50円硬貨がけっこう拾えて。元町の駄菓子屋で豪遊するんだけど、そこの親父に怪しまれてね(笑) 西岸良平先生の『三丁目の夕日』のファンなんですよ。あのころの葉山そのものだから」
そして、夕日の逆光でシルエットをくっきり顕わにする富士山を見ながら帰途につく。子供の遊び場として、これほど贅沢な場所があるだろうか。
佐久間さんはそのように、葉山の海に抱かれて成長し、父の不動産店を継いだ。
不動産業者としての氏は、知る人ぞ知る存在である。
「海が見える物件」専門で、この分野では湘南で右に出る者がない。本来の客に留まらず、テレビや雑誌の人もロケハンの相談に通うらしい。
ところがこの店主、気に入った客にしか物件を世話しないという噂がある。真偽を聞くと、
「いやぁ」としばらく自答するふうに考え、
「知ったかぶりするお客さんはねぇ、じゃあ自分で探せば、と思うよね」
客を選ぶという噂は──やや誇張されているきらいはあるものの──本当だった(!)
海の見える物件に特化した理由は「自分が好きな物件だし、そのほうが、仕事も楽しいから」
物件探索は、航空写真であたりをつけることから始まる。次いで海の上から観察し、上陸し、物件まで歩く。
暇があれば歩いていい物件を探し、チャイムを押して名刺を置いてゆく。そのときは売ってくれなくても、5年後10年後に話しがまとまることもある。
佐久間さんは、売買や賃貸の仲介だけではなく、物件そのもののプロデュースもし、集合住宅やバーなどの実績がある。建築士ではないが、建築のアイデアも提出する。肉筆で描くパースは、CADの3DCGなどよりずっとイメージが伝わると好評だ。
「僕はある意味、夢を売ってると思ってる」
「家って、1/1スケールの究極の模型じゃない」
ならば夢の模型を作ればいい。夢を見ながら夢とは遠い現状に甘んじることはない。
そうは言っても、と言いたいところだが、氏は実際に、夢の模型を建てている。それも自分の手でこつこつと。
まず写真を見て欲しい。氏の「海の遊び小屋」である。
初めてこの土地を見たときは道路脇のただの土手だった。私有地であることを知り、地権者を拝み倒して譲ってもらった。それが86年のことである。最初に建てたのは葦簀(よしず)張りの、海の家ふうの小屋で、海水浴客がよく間違えて入ってきた。男は追い返したが、女性なら「ま、ゆっくりしてゆきなよ」と歓待したとか。
そこで飲む酒は最高だった。砂浜から直接立ちあがる石積みの提の上だから、目前には海以外の何もない。手前に名島、その奥に江ノ島、そして富士。
冬でも使えるようにと、友人たちとこつこつ板張りの小屋を建て始め、現在の「北棟」が完成した。
室内には、酒瓶や工具や資材や、氏自作の、作風に統一性がないオブジェが雑然と置かれ、どこにも畏まったところがなく、窓外の海のせいばかりではなく、いつまでも座り、とろとろと、少しづつ酔いたくなるような、人間の生理を優しく抱いてくれるというか、そういう本質的な居心地の良さがある。
板張りのパティオ──例によって建材やバーベキューの跡がそのまま放置されている──を挟んで「南棟」。
これも佐久間さんと仲間で建てた。築一年になる。
(26-27ページの扉写真もこの南棟である)。
ワンルームで畳敷き。手あぶり火鉢に煙草盆、骨董箪笥。これらをみれば茶庵風だが、もちろんそう単純ではない。天井にはサーフボードラック、壁には船舶用の真鍮の舷窓、海に面したステンドグラス、ベランダの木彫り装飾(こういう細部も全て氏の手製)、雑然と積まれた寝袋や布団は飯場風、と部分部分はカオスなのだが、ある種の落ち着きがあって居心地が良く、冷静に考えると、こうまとめるのはすごいセンスが必要であることが分かる。
何よりこれが築一年であることだ。おじいちゃんの湯飲みのように、30年40年と使い込まれているように見えるのに。
火鉢や箪笥の道具立ては古いものを持ってくればいい。
(職業柄、鎌倉の古民家取り壊しなどに立ち会うことがあり、不要となったそれらを引き取るなど)
問題は壁や建具だ。素材や塗料をいちいち吟味しないとこうはゆかない。
気が向けば友人に声をかける。友人たちは好みの酒を提げてやってくる。パティオで、潮風に吹かれつつ、葉山の貝や魚を焼く。
とはいえバーベキューにこだわってるわけではなく、酔って料理する気がなくなったら、店屋物を取る。鮨屋のチラシやらが適当に画鋲でぶすっとそこらに止めてある。酔いつぶれれば、南棟で雑魚寝。徹底的に、肩のちからが抜けている。
佐久間さんは、ここでふたりの息子を育てた。
ここは、海の遊びの道具庫でもあり、北棟の天井には、二組の、小さな水上スキー板が飾ってある。息子たちが幼い頃、一階のスロープからボートを出して、葉山の海で遊ばせたのだ。かつて自分が遊んだように。
長男の洋之介君はプロサーファーになり、世界中を旅している。弟の泰介君もプロを目指し、メキシコでホームステイしている。洋之介君は最近、仲間たちのライディングを撮影し、編集し、音楽をつけて、"DANCING ON THE WHAT"という、サーフィンとスケートのDVDを作った。ジャケットは、パパ、佐久間さんが描く。素敵なコラボレーションだ。
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それにしても、この葉山のビーチハウスの、機能を言う言葉がない。
自宅から歩ける距離だから、別荘ではない。
別荘というと、たまにしか行かないのものだから掃除になり、それが苦痛で行かなくなるという、笑えぬ笑い話があるが、ここは日常的に使い込まれ、その対極にある。
「だから小屋だよ」
と、佐久間さんは言う。
海の遊び小屋。食う、寝る、遊ぶ、そういう日常の一部だよ。
昭和30年代の男の子は、友だちと、材木置き場に秘密基地を作って遊んだ。あれに似てるかも知れないな、と、佐久間さんの答えを聞きながらふと思った。
この「小屋」が作品の最たるものだが、佐久間さんはゲージツ家である。徹底的に自分のために創作して、悪い意味でプロっぽくないから、芸術家ではなく、
ゲージツ家なのだ。
小屋のなかには、マッチ棒の軸や、ビーチグラスを利用したランプシェードなどのゲージツ作品がごろごろと転がっている。作風に一貫性がないところがまたゲージツっぽい。
佐久間さんは最近、絵を描き始めた。
28-29ページはその最新作品、「夢に出てきた大崎(仮題)」だ。ある人は彼の作品を「登場する人物全員が幸福な」絵、と評した。
葉山で生まれ育ったにしては、波乗りを始めたのは遅かった。20代の半ばまでモトクロスに凝っていて、三浦の山中を走っていたからだ。
サーフィンを始めてからは夢中になったが、最近は仕事が忙しく、前ほど海に出られなくなった、海に出る時間が減った。すると夢想の密度が濃くなった。
佐久間さんの脳は、バーチャルなサーフィンで代償しようとしたのだ。夢想はその張力を増し、頭蓋骨からあふれ出して、こういう絵となった。要するに佐久間さんの頭の中は、この絵のようなことになっている。
一作描き上げるのに、仕事もあるから20日くらいかかる。海に出られない日が続くと、絵を描きたくてたまらなくなる。そのように仕上がった絵が、現在20作ほどある。

………えーと、なんの話しをしてたんだっけ?
そうそう、相対性がどーの。それはもういいだろう、ここまで読まれたあなたは、佐久間さんが、「生活」を実現していることを、お分かりになられたろうから。

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材木座の兄貴・三木英樹さん          

おれ、ウインドを、メジャーにしたいんだ
と兄貴はいう。風が強いと家ごと揺れる事務所の
窓外の、いまようやく走り始めた、よちよち
ウインドサーファーを眺めながら。

■ 三木英樹さんのことを、日本のウインドサーフィンの父、というとすこしオーバーかもしれない。けれども、良き兄貴、という表現では物足りない。
三木さんは、ずっと材木座に住み、現在の事務所は、材木座県営駐車場のとなり。R134をはさみ、眼前に海が広がる。屋根の絵は奥さんと仲間で描いたもの。ペンキが陽に焼けて、空と同じ色になっている。R134を逗子から鎌倉に走ると、小坪のトンネルを抜けたところでこの屋根が目に入り、ウインドサーファーたちはほっと心和むのである。

三木さんは74年、高校3年生のときウインドサーフィンを始め、79年、ポパイ誌のウインドサーフィン特集のための取材を受けた。日本の若者はこの特集でウインドサーフィンを知った。
日本で最初にウインドサーフィンを始めたうちのひとりであり、このスポーツを社会に認知させ、80年代初めのウインドサーフィンブーム、その後の発展に寄与した。

父は、産業医師(中小企業の工場などの環境改善、健康指導などを行う)というカタい仕事をしていたが、氏は横浜の山手学院で中・高とヨット部にいて、海から離れたくない、将来、海で仕事ができれば、と思っていた。
ヨットでは、インターハイ3位など強豪だったが、二人乗りの相棒と意見が合わず、17歳にして人間関係に疲れていた。
そんなある日、舵誌で、ウインドサーフィンを知る。日本への輸入が開始されたという、小さなカコミ記事だった。
これならひとりで気楽にセイリングできそうだと、即、購入を決め、ヨット(自作艇だった)を売って20万円をつくった。
自宅のある横浜磯子から、原付バイクで、ウインドサーファー艇を積んだリヤカーを牽き、杉田の浜に行った。杉田は現在のように大工場と岸壁で固められておらず、貯木場があって、そこから出艇できた。
セッティングが分からなかった。
インストラクションも何も無かった。シートワークはヨットの経験でなんとかなったが、ブームとセイルの関係が分からず、セイルを、ブームの中ではなく、外側に湾曲して張った(ヨット的にはそうだった)。片方のタックはブームを握られたが、反対タックはセイル越しで、東京湾の真ん中まで流され、漁船に助けられた。しかしめげず、学校をさぼって、毎朝9時に杉田の浜に通った。
高校卒業。ウインドサーフィンにすべてを奪われていた三木さんは
「どうせなら世界一盛んな場所へ」と、アメリカ留学を決意。
当時のメッカはハワイではなくカリフォルニアで、1年間英語を猛勉強し、76年1月、LAのペパダイン大学に無事入学する。
79年ハワイに移り、オアフ、ヒルトンホテルのスクールで、世界各国の、延べ2700人にウインドサーフィンを教えた。
82年帰国。プロ選手としてレースに出場し、専門誌に寄稿し、カスタムボードメーカーを立ち上げるなど多忙を極める。
87年の春、WSFジャパン社の鈴木社長から、とつぜん、電話があった。
「おまえ、うちの会社、やる気はないか」
日本に初めてウインドサーファー艇を輸入した会社で、鈴木氏は日本ウインドサーフィン界の父的な人物だった。三木さんも同社に在籍したことがあり、ふたりの関係は薄くはなかった。
同社は経営危機に陥っていた。
ヤマハ、デサント、アシックスなどの大手が買収に動いていたが、鈴木氏は、彼らに売ったら、単なる一部門になって、おれが築いてきたウインドサーフィンの魂がなくなってしまう、おれは、おまえにやって欲しいんだ、と訴えた。
それまでウインドサーフィンしかやってこなかった三木さんである。負債がある、小さくない会社の経営なんてできるわけがない。毎晩のようにかかってくる社長の電話をかわして、生返事を返していた。
その年の7月、腰が痛いと鈴木氏が入院。
三木さんはやっと、じゃあ退院したら具体的な話をしましょうと返事をする。
8月の始め、鈴木氏がとつぜん逝去。
ふたりで再建するつもりだった。
訃報に接し、三木さんはWSFジャパン社を引き継ぐことを決意。同時に、2億強の負債、1億の売り掛け、7件のパテントなどにともなう裁判が、両肩にのしかかってきた。
いきなり、ヤクザ屋さんや、弁護士とか、未知のプロたちとの闘いに突入した。苦労を重ね、バブル期の最後の最後に、工場を売り抜くなどし、三木さんはなんとか生き延びた。
このころ、ウインドサーフィンそのものも、一時期のブームを過ぎ、冠企業が続々と撤退してコンテストが激減するなど危機的状況に陥っていた。
三木さんは、我が身と会社を守っただけではなく、協会の理事を務め、ボランティアで、時には身銭を切ってレースの運営に挺身するなど、ウインドサーフィンそのものを守った。
「おれ、サーフィンもスノーボードもやったよ、でもぜんぜん、ウインドサーフィンにはかなわないよ、このまま(マイナースポーツ)にしておくの、もったいないよ、ウインドサーフィンを、もっと大きくしたいんだよ」
と、三木さんは、自分の気持ちを再確認するように、言う。材木座の事務所の窓外の、材木座の海で、いまようやく走り始めたよちよちウインドサーファーを眺めながら。

この事務所、昭和初期の建築らしい。むかしはドイツ料理店だった。15-6年前、いちど食べに来たことがあるようなないような、と三木さん。さいきん物忘れが激しくなったのかしら。
そのレストランがつぶれ、この場所を継いだセイリングクラブも撤退したのち、三木さんが手に入れた。
bts0504_ura-6.jpgfoto by Tetsu Satomura
2階がWSFジャパン社本社事務所で、1階がボードやセイルの艇庫、かつじぶんと仲間の遊び場になっている。三木さんが言うには、一般セイラーによるウインドサーフィンの道具のR&Dセンターでもあるという。道具の開発は一般にプロ選手が行うが、それとは違う、新鮮なインプレッションが貰え、目が洗われることもしばしばだとか。
収めている道具は最新だが(奥には、もう何年も掘り出していないヒストリックボードも埋もれているが)、建築は徹底してメローだ。
外装はペンキ絵を描くなど多少手を入れたが、建築の内部は、レストラン時代の建具や、煉瓦積みのパーティション、すべてそのままの状態である。
三木さん、「北の国から」の五郎さんのように、捨ててあるものを拾ってき、再生して使う。
ウインドはサーフィンと違って道具立てが多い。それらをビーチに運ぶボードキャリアも、廃品乳母車をベースに、折れたブームなどで自作、修繕しながら、もう7、8年使ってる。
「買うと何万もしてバカみたいだから」とおっしゃるが、この空間に、妙にてかてかした、新しいものを持ち込みたくないのだろう。小物リペアコーナーの、机もラジカセも、廃品回収。リペアコーナーの工具やビスも潮で錆びているのがここらしい。
もちろん苦労はある。建築自体が傾いているし、強風になるとギシギシと揺れる。雨漏りはするし、屋根が剥がれているのでブロックで抑えてるが、すごいブローが入ったらブロックごと吹っ飛びそうだし、東海大地震に襲われたらぺしゃんこ必至だ。
いちばん困るのは、すきま風に潮が交じるので、コンピューターや周辺機器が3年でダメになることだ。
事務所兼艇庫としての機能を優先すれば、軽量鉄骨3階建てに新築し、別の場所に借りている自宅をここに移したい。とはいえ、ここは別荘であり、好きなモノに囲まれる、安らぎの場でもある。願わくばいつまでもこのメローでスローなままで長らえば、とも思う。この建築には愛憎あって悩ましい。
一階に、リゾートクラブピクニックという看板が掛かっている。シャワーやソファー(いつもモノが載っていて座れないが)もあり、一応のセイリングクラブの体裁はある。けれど商売じゃなくて、実態は三木さんの中高同級生、おじさんおばさん仲良しウインドサーファークラブなのだ。
かれらももちろんこの建築のファンであり、取り壊して新築の話を、三木さんが出すたび、こんな梁は二度と手に入らないとか、歴史的建造物を壊すなんてバチが当たるぞとか、なだめすかすように、あるときは強硬に反対されるそうである。
大磯のレジェンド・坂田道さん          

昭和20年。
「この波に、立って、乗れれば」と
夢想する少年がいた。
そう夢想する者は他にもいた。
少年が、他と違っていたのは、夢を
夢で終わらせなかったことだった。

■ 湘南、という言葉じたいそう古いものではないし、地元の人はあまり使わないのだけれど。
よその人が、東は葉山、西は茅ヶ崎まで、などと括ったりするのだけれど。
しかし、あえて「湘南」の、もっともトラディッショナルな地は、茅ヶ崎の西の、大磯だ、とも言える。
大磯は、1885年(明治18年)日本初の海水浴場として開かれた。当時海水浴は健康増進の手段で、温泉のように海水に浴することが目的だった。軍医総監の松本順氏が各地を調査し、大磯が最適と判断したのである。これを契機に、大隈重信、伊藤博文、三井守之助ら、政財界の要人たちがこぞって大磯に別荘を建てた。夏になると、彼らの子弟たちが大磯に集まるようになった。若者のことである。海水に浴して癒されるだけでは物足りず、板子乗りをするようになった。もともとは漁師たちの遊びだったらしい。フィンもレイルも無い、ただの杉板に腹這いで乗るのである。ある資料に、現存する1枚の長さが87cm、幅30cm、厚さ2cmとある。ボディボードのプロトタイプと言っていい。フロントやバックサイドには行けず、ただ真っ直ぐ走るだけだったが、それでも若者たちを夢中にさせるに充分だった。
昭和7年には、「大磯波乗倶楽部」が自然発生的に成立していた。深窓の令嬢や良家の子息たちがメンバーである。恋もロマンスもあった。甘美な日々は戦争によって潰されたのだが……。
戦争は終わり、そんな夢のあとの海で、熱心に板子に乗る少年がいた。少年はいつも夢想していた。
「この波に、立って乗れたら、もっともっと気持ちいいだろうなぁ」
そういうふうに夢想する少年は(大人は)たくさんいた。彼と他との違いは、夢想で終わらせなかったことだった。少年は坂田道(おさむ)といった。68歳になるいまも、波が上がるだろう前夜は、少年のように胸がときめいて眠れない。

昭和12年生まれ。父は海軍少将で、松島航空隊司令を務めていた。坂田氏の178cmの長身と、68歳にしてしゃんと伸びた背筋は、この父から受け継いだものである。海軍少将といえば当時は国家的エリートである。生活はしかし、父の戦死と敗戦で逆転した。貯金が底を突き、インフレが襲い、しばらくは宝石や着物などの家財を売って、食をつないだという。
坂田氏が板子乗りを始めたのは小学校2、3年のころというから、ちょうどこの時期、終戦直後である。
氏は苦学して湘南高校から早稲田の法学部に進み、大手の特殊鋼メーカーに就職したが、この間、「立って波に乗る」夢を諦めることはなかった。
大学時代に、鎌倉に「フロート」と呼ばれる木製の波乗りの道具があると聞き、見にいった。フィンは無かったが、板子と違って中空構造になっていた。由比ヶ浜の海の家の親父に交渉し、売ってもらった。5000円だった。当時の大卒初任給が14000円というから、かなり高価だ。
ところが、長さが2mほどあり、横須賀線鎌倉駅で改札を通してくれない。最終電車ならと譲歩を引き出し、ようやく大磯に持って帰れたが、大磯の駅を出たところで、警察官に不審と見なされ、その夜はとうとう自宅に帰れなかった。
そんな苦労をして入手したフロートだったが、大磯では使えなかった。
大磯の波は「あご波」といって、フェイスが張り、ダンパー気味に早く割れ、サイズも鎌倉などより大きく、フロートでテイクオフするはいいが、必ずといっていいほどボトムに刺さって海に落ちるのだった。
研究熱心だった坂田氏は、たとえば上野のアメ横で進駐軍のフロートマットを入手し、試したりしたが、もとよりこれは立つには不向き。やがて氏は、すでに在るモノで、立って波に乗るのは不可能であり、それを可能にするモノを自分で作るしかないとの結論に至る。
ハワイでは「サーフィン」なるものをやっているという噂を聞き、永田町の国立国会図書館に出向き、資料を探すと、果たして「サーフボード」の構造を記した書物が和訳されていた。
それは、ウレタンフォームをグラスファイバーで巻き、フィンがついた、現代のサーフボードと変わらぬものだった。
氏はさっそく製作に取りかかった。平行四辺形断面を持つ細長い角材を、アウトラインを形成するよう曲げ、2本重ねて角を丸めレイルにした。ノーズとボトムは微妙な三次元形状で加工が難しかったから、檜材と設計図を木型屋にもちこみ製作を依頼した。2本のレイルとノーズとボトムを固定し、飛行機の翼のように、漸次断面高が変わるリブで補強し、リブ間に浮力材を詰めた。(設計図写真を参照。なんとなくお分かりだろうか)
問題はグラスファイバーと樹脂だった。
ポリエステル樹脂は、忘れもしない小西儀助商会で手に入れた。グラスファイバーは、当時茅ヶ崎にあった旭ファイバーという会社に──たぶん扱っているだろうと──飛び込んだ。サーフボードを作りたいので、と頼んでも、相手は首を傾げていたが、氏の熱意に負け、もってけと無料で分けてくれた。
ようやく完成した「一号艇」。長さ300cm、幅55cm。重さは15、6kgもあった。当時はまだ珍しかった、コカコーラの、ウエストがくびれた瓶を傾け進水式をした。簡単には立てなかった。何度かの週末を費やした、ある日、パドルし、へっぴり腰でボードの上に立つ、と、へっぴり腰で出た尻側のレイルに加重されたボードはバックサイドにキュインと切れ上がった。
わ、わ、わ!
あの瞬間の興奮は、40年を経た今でも忘れない。
時に坂田氏27歳。昭和38年。東京オリンピックの前年だった。
二号艇三号艇と氏は改良を重ねた。ウレタンフォームと違い、発泡スチロールは入手が容易だったが、ポリエステル樹脂を使うと融けるため使えなかった。
エポキシ樹脂は発泡スチロールを侵さないと知るや早速製作に取りかった。20mm厚の米杉を、ボードのセンターライン断面に切り出し、その両側に発泡スチロール材を何本も接着し、米杉の芯材をいわばロッカーテンプレートとしてシェイプし、エポキシ樹脂で巻いたのである。
鎌倉や茅ヶ崎の板子乗りたちが、坂田氏の「サーフボード」を見に、大磯に来るようになり、幾人かが真似て作るようになり、やがて、フジサーフボードやマリブと言ったサーフボードメーカーが生まれることになる。
一号艇は現存しないが、これら初期のボードは、新島村博物館に展示されている。
氏は、仲間たちとともに、ボードのみならずウェットスーツも開発した。
冬もウールのセーターなどを着て海に入っていたが、
神田のゴム問屋で材料を仕入れて自作したり、潜り用のウェットを作っていた真鶴のツルさんという業者に、サーフィン用に改良してもらったりした。
坂田道氏は、日本における「近代サーフィンの父」と称されるが、それら道具を開発したからそう言われるのではない。氏は、このスポーツそのものを慈しみ、育てあげた。

大磯に、やがて仲間が集まり、坂田氏を中心に、
「大磯BIG WAVERS」というチームが結成される。かつての波乗倶楽部はハイソだったが、BIG WAVERSは、サーフィンを心身を鍛える手段としてとらえ、ハードコアで体育会的だった。
鵠沼に「サーフィンシャークス」、茅ヶ崎に「バーバリアンズ」、鴨川には「ドルフィンズ」。
全国に、同時発生的にサーファーたちが生まれていた。
氏はこのころ、サーフィン連盟設立の必要を強く感じていた。この素晴らしいスポーツを健全に育てるには、求心力のある連盟組織が必要だ。それはひとつでなければならない。乱立すれば、混乱しか生まない。
苦労を重ね、65年、日本サーフィン連盟(NSA)創立。余談だが、今とはサーフィンも風俗が違って、連盟の会議に長髪で参加した者に、散髪してこいと注意するなど、高野連みたいなテイストがあったらしい。
66年、鴨川にて、連盟主催の第一回全日本サーフィン選手権を成功させた。
連盟創立後、氏は理事長を15年、相談役を17年務め、軌道に載せた。現在の連盟は大きな組織だが、創立当時は資金があるわけもなく、活動資金は自腹、手弁当だった。坂田氏の「人間力」の非凡なところは、その苦しい、献身的な仕事を、大手特殊鋼メーカーの、一線の企業マンとしての仕事と、両立させたことにある。60年代と言えば高度成長期で、鉄鋼メーカーはその牽引車。
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「モーレツ」が美徳とされ、レジャーで休暇を取るなど論外という時代である。それも、サーフィンという聞いたこともない軟派な遊び。
しかし連盟理事長たる身、全日本や、海外の大会に遠征する日本選手の引率など、1週間単位の休暇を取らねばならない。
氏は「あいつの言うことだからと呆れられて」休暇を貰えたと仰るが、そう簡単なわけがない。仕事でも実績を上げておとしまえをつけたのであろう。その証拠に出世もして、取締役で会社員生活を終えている。
氏は購買畑一筋だった。購買という仕事はその性質上、汚れやすく、数年で異動するのが常なのだが、氏は例外的に最後まで在籍した。このキャリアも、企業人としての有能さと清潔さを語っている。
さて、2005年の現在、氏は150坪の、大磯の自邸にいて、自作したウッドデッキのうえで優しい眸を細め、筆者に波乗りについて語っている。
68歳といえば普通は、定年とともに老け込み、孫と遊ぶくらいしか楽しみがないものだが、氏は「日本初の年金サーファー」とうそぶき、天気図を読み、明日の波を期待して、少年のようにワクワクとした日々を送られている。パソコンを使い、波予測にネットも駆使するが、日課となっている早朝散歩、自邸から自転車で2分の、朝いちの大磯の海を見れば、湘南のどこのポイントも予測がつく。
それはそうだろう。氏は60年も、この海を見ているのだから。
「波がでかいので」と、ホームの大磯をこよなく愛しているが、逗子のカブ根にも20年ばかり通っている。
カブ根は逗子マリーナの沖にあるリーフで、他のポイントがクローズアウトしたとき、ベストな波が割れる。
年に数度しか割れないが、いい日は、フェイスの壁が100m以上続く。そんな日、ビッグウェイバーである坂田氏は今も、いちばん奥で波を待つという。
サーフィンのおかげで、いい人生だ、と言う。
「ヤップ島とか、バリとか、サンディエゴのウインダンシーとか、世界のいい波にもさんざん乗ったしな」
68歳の現在でも、波が続けば何日も続けて乗れる体力を維持していることだけをとっても、いい人生だと言うに足るだろう。

坂田氏はかつて、「波に、立って乗る」という夢を実現した。連盟創立という夢も実現し、サーフィンを、今日の姿に育て上げた。今も、サーフィンについての、何らかの夢を抱いておられますか、と聞いた。
「そうだなぁ、まだ乗ってない、南アフリカのジェフリーズベイとかの波に乗りたい気もするけどなぁ……、でもま、そりゃいいか、大磯やカブ根のいい波に、死ぬまでにたくさん乗れりゃあな」
自邸の庭に倉庫があり、ボードラックになっていた。
たくさんのロングボード。ショートボードがないですね、と聞くと坂田氏、
「さすがに乗れねえよ、いくつだと思ってンだよ」
と、笑った。