……………… 建築家はいかに"ONLY ONE"となったか?  大浦比呂志氏とその手作りの家 ………………

1981-1987     
最大公約数的ポピュラリティと鋭角性の両立
ないものは作る職人性、店舗デザインの現場で
地力をつける

■ 61年、東京は中野の生まれである。
マガジンハウスから雑誌ポパイが創刊されたのが
15歳のとき。
18歳のとき映画ビッグウエンズデイが封切られ、
それを契機に第2次サーフィンブームが。オキシ
ドールで、髪もフレアのジーンズも「ブリーチ
アウト」し、花柄小紋のウエスタンシャツや
ロペスのブランドだったライトニングボルトの
Tシャツ、厚底のビーサンが流行、BGMはもちろん
イーグルスにドゥービーブラザーズ。
そして20代ではバブル経済とその崩壊を経験している。
と、書くと、大浦氏の世代を直感的に把握されよう。

大浦氏も時代の子ではあったが、その風俗的偏差値は
高かった。小学生時代は中野ブロードウェイを根城として
サブカル(のはしり)にひたり、中学にあがると原宿
ペニーレーンや新宿ルイード、当時新宿伊勢丹の裏に
あったロック喫茶怪人20面相などに出入りするように
なった。マセた鼻持ちならないガキだったとも
言えるが、当時の原体験が現在の氏をあらしめた
部分も少なくはなく、人生、要は体験である。
ところがマセガキの蜜月はとつぜん暴力的に断ち切られた。
中2の終わりに親が八王子に家を買い、引っ越しを余儀なく
された
のである。
同じ都内じゃんといえ渋谷原宿六本木と八王子は違う。
三郷、我孫子と同様に。
村的共同体意識が残る同級生たちのなかにあって、
大浦少年ひとりが異物だった。露骨にいじめられたり
シカトされることはなかったが、校内に気を許せる
友ができることはなかった。

八王子での中学、高校時代を通じて、少年は心の中で
叫び続けた。
「どうしてそうなんのよ?」
「おれ的にはだんぜんこうなんだけどな」
「…………。」
大浦氏は、作家性が強い建築家である。表現すること
の内的欲求が強い人は──あくまで記者の私見だが──
端的に言うと自分に似た人を作りたいのである。
ご自身は、この思春期の鬱屈がその後の針路を決めた
とおっしゃるが、そうであろうし、元来、表現者的傾向
を有してもいたのであろう。
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1988-1993    
独立、挫折、都落ち。しかし無駄ではなかった。
丸一年を費やした「津久井湖サンタフェの家」により、
すべては動き始めた

高校を出、東京デザイナー学院インテリアデザイン科に入った。
「中学時代、どきどきしながら足を踏み入れた店のような、自分の遊び場を、自分で創りたい」
そのための最短距離がインテリデザイナーになることだろうと考えた。
バブル期、空間プロデューサーや店舗コンセプターなどのスターが生まれるが、この79年当時はしかし、まだ職種として確立されていない。
81年卒業。
現在に続くクリエイターブームのはしりで、糸井重里のコピー、「不思議大好き」('82)「おいしい生活」('83)などが持てはやされ、コーポレートアイデンティティうんぬんと言われるようになり、「デザイン」が重視され始めるようになった。
大浦が入社した会社も、グラフィックデザインに始まり、やがて店舗のコンセプトやロゴ、広告戦略、内外装デザインにまで守備範囲を広げていった。
自由な社風ですぐに仕事を任されるようになった。20代初めにして天職と巡り会った確信があった。
波乗りを始め、板を積んだクルマで出勤、出社前や退社後に海に出ることもあった。
その会社で6年経験を積んだ大浦は、名を売って独立するための準備を始めた。退社し、半分フリーの立場で、松井雅美氏、杉本貴志氏ら、有名デザイナーの都心事務所の門を叩いた。武者修行である。
1987年。バブル隆盛で、カフェバーブームがあり、仕事は世に溢れていた。自分の力を試したく、有名デザイナーのノウハウを学びたくもあった。
デザイナーとひとくちに言っても、ディティールを積み上げて行くタイプ、プロデューサー的なタイプ、様々である。
大浦自身は、「自分目線で、シチュエーションから発想する」タイプという。たとえばクラブをデザインする。
そういう場所では異性との出会いを期待するだろう。ならばアルコールはキャッシュオンデリバリーで席を移動できた方が良い。ならばどいう回遊性を持たせるべきか? フロアに段差をつけて着席者と目線高を合わせる。照度差をつけて、親密に話せる暗い場所、出会いの場となる明るい場所をつくる……。
この手法でデザインしたあるクラブが、ポパイ誌のクラブオブザイヤー的な記事でベスト3となった。27歳である。天狗になるなという方が無理だった。神宮前のマンションの一室を借り、大浦は独立した。
順調ではなかった。独力でやってゆくにはデザイン力だけでは不足だった。営業力、経営戦略、総合力が必要なのだ。朝、事務所に出てもなにもやることがなく、電話が鳴らないのは電話が故障しているせいではないかと何度もチェックした。たまの仕事は下請けで、自らの作家性をアピールできるものではなかった。
結局3年で事務所を閉めざるを得ず、敗れ、借金を抱えた大浦はもといた会社に戻った。チーフデザイナーとして迎えてくれたが、威勢のいいことを言って飛び出した会社である。肩身は狭かった。
だだこの第一次独立期、大浦は重要な仕事をしている。以前手がけた店舗オーナーに請われ、その邸宅デザインを依頼されたのだ。アメリカ生活が長いその施主の要求は「津久井湖にサンタフェ風の家を」というものだった。
1年かかった。施主と、アメリカ、メキシコに建材を仕入れに行きさえした。仕入れたはいいが、日本の職人は中米の建材を扱った経験がないので、作業はいちいち停滞する。そういう苦労の連続だった。
店舗デザインは短期決戦である。何千人というマスが相手で、最大公約数的ポピュラリティと鋭角性を両立せねばならない。そこが面白かった。
住宅は個対応で時間がかかった。そのときはもうやりたくないと思った。しかしその初めての住宅作りが大浦のその後を決めたのである。
1994-      
自然素材、古材、手作り、工芸的制作……
未知の壁を越えつつ、「大浦の仕事」を確立

復職した会社では、渋谷スペイン坂店を手始めに、量販的イメージを払拭すべく、ムラサキスポーツのCI、リノベーションなどを手がけた。
この時期、津久井湖の家を見たあるカメラマンから「日本でもこんな家が建つのか」と2件目の依頼。その住宅がある雑誌に載り、以降次々に住宅デザインの依頼が入るようになる。1994年、33歳のとき、横浜あざみ野に「大浦比呂志創作デザイン研究所」を設立。前回同様一人での独立だったが、同じ轍を踏まぬよう、営業は別会社、自らはデザインに没頭できる態勢を整えた。店舗から住宅に、徐々に軸足を移し、45歳の現在に至る。
大浦の仕事はその性質上量産はできないが、かれは住宅デザイン界で独自の地府を占め、事務所はカロッツェリア的ステイタスを高めていった。
それは、大浦の仕事がオリジナルで、他が追随できなかったゆえである。
注文住宅といえ通常は、その建材や建具はほぼ100%、既製の規格材を使う。ところが大浦の場合、構造材をのぞき、建具、照明や家具のほとんど、内外装の多くが、自然素材や古材、その再生品、アートワークス、左官、塗装品なのだ。
ここに紹介したのは7年前に建てた大浦の自邸だが、たとえばその表札、OHURAの文字は鉄材の曲げ、面材は緑青エージングを表現した「アートペイント」 、枠はメキシコのアンティークタイル。それは一例で、詳細は別掲コラムを参照されたいが、このレベルの「仕事」が各ディティールの全てにわたって施されている。
内扉は中米コスタリカの、築百年を越える納屋の扉である(さすがにちょっと高価だったらしい)。
これは100年かけて風化した材のテイストを活かすためそのまま使用したが、古材はコンディションが様々であるため、通常は一工程二工程費やして再生せねばならない。
工法しかり。この自邸にも採用されているが、梁が壁を貫いて外に突き出たような様式がある。サンタフェでよく見られ、現地では「ヴェガ」と呼ばれる。乾いたサンタフェなら良いが、雨が多い日本でこれをやると梁から壁内部に雨水が浸入し、壁を腐食させてしまう。これを防ぐため、金属製の雌型を壁に固定し、茶筒のように、梁を挿入した。が、梁が木材の場合それでも腐ってしまうことがあるので、ついには古材の型を取り、作家にFRP製の「擬木」を造らせた。大浦のネットワークには、そんな擬木、擬石を造る作家的職人も含まれる。かれらは東京ディズニーランドなどでも仕事をする一流である。
住宅で、この種の仕事をする先達はいなかった。教科書はなかった。大浦自身がパイオニアだった。古材の仕入れ、その再生法、工芸的仕上げ要領、作家的職人の人脈づくり、先述したような工法の開発……全てを現場で試行錯誤しながら確立していった。
差別化が重要な店舗では、無いものは造らねばならない。そういう場所で長く格闘してきた大浦だからこそ実らせることができた職能だった。
誰かがそれらノウハウを得たとしても──大浦自身も公開しても良いと言っているが──容易に追随できるものではない。
技術的な問題以上に熱意の問題であるからだ。つまり、仕事に非常な手間がかかるのだ。
通常の場合、プランを立て決定図面を起こすと、あとは設計監理だけとなって、創作的な仕事は一応建築家の手を離れる。
大浦の場合はそこからが本番だ。図面は一応の方針に過ぎない。
規格材ではないから、必要に応じ、再生し、仕上げたうえ、現場で逐一、収め仕舞ってゆかねばならない。
建具にエージングなど「アートペイント」を施すことも多いが、そのテイストは現場でしか決められない。大浦自身手を出して調色することもしばしばである。いきおい連日現場で長時間働くことになる。
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技術、熱意、をクリアしても、3つ目のハードルが残っている。
デザイン力である。
この自邸にも多数のテイストが混在している。日本の古民家から採った太い梁、畳、サンタフェ風な鉄材鍛造の造作照明、同じく分厚い珪藻土の塗り壁、バリ産竹網代の天井、アメリカの古い納屋の外壁材で造った建具、アーリーアメリカンな白く塗られたブリックタイル、一転してモダンな円形のガラスブロック……ある任意の2つのアイテム同志なら親和しない場合もあるのに、全体としては調和しており、副交感神経が慰撫されるような居心地をもたらしている。これはそうとうなアートディレクションの腕力がないと成しえることではない。

94年の独立以降、大浦の事務所は着実に成長した。といえ、スタッフは8名となお工房的。量的拡大の誘惑にかられることも無くはないが、スタイルを変えるつもりはない。
仕事の密度を落とさぬため、大浦ボス、まっさきに手を挙げ、おれ、今年は3軒しかやんないからね、と宣言したそうである。