……………… 生活エリートたちの、ウインドサーフィン・エンゲル係数 2001 ………………

life-nishioka.jpgfoto by TAKI
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HUMAN-005

西岡雅徳さん(40歳A型)
日産自動車 電気技術技士

これ日産の企業秘密で、ライバルに
見られるとマズイんですけどねえ、と、
握力75kgの技士はいった。
職場は横須賀の追浜。
葉山一色に、小さいけれど気持ちいい家も建てた。
職場と、自宅と、海が、数キロ圏内。あいだに
あるのは、三浦の森。どこにも潮風がとどく。
みっつの生活が、ストレスなく、時間差なく、
つながっている。



■ 日本経済がデフレスパイラルで低迷するなか、かのゴーン社長の剛腕で、01年3月期、3311億円という過去最高益を記録した日産自動車の——いえ、こういう経済誌みたいな書き出しやってみたくて——製造の中枢、横須賀の追浜工場。敷地内にはテストコースもあり、覆面の新型車が試験走行を重ねている。
その核心部で撮影したいと申し出たのだが、広報部の許可がなかなか下りなかった。
生産ラインが一時休止する午後15時半から1時間のあいだならと(ちなみにその間、工場内にラジオ体操の放送が)、ようやく許可を得たのだが、工場に足を踏み入れてわかった。
完成した部品のラックや、それらをはこぶキャリアや、金型や工具が、まるで定規で測ったように、所定の位置に静置されている。人は少ない。ユルい空気はどこにもない。ミリ単位の合理化、グラム単位の削減が行わている現場、というかんじがする。と、偉そうにレポートしている。大手自動車メーカーを取材するのは初めてなんですけど。
さて、今回主役の西岡さん、182cm、82kg、握力右75kg、左70kgというが、力仕事ではなく、ひじょーに知的な仕事に携わっておられる。
「制御系を含めると総額2憶5千万から3億円くらい」という背後のマシンを、電子的に制御している。
さて、このマシン、なにを作るものだと思います?
「横型樹脂射出成形機」
クルマの樹脂製バンパーをつくる、それも4000トンクラスの最新鋭重機である。
写真の金型は北米向けマキシマのリアバンパー。
ご存じの通り、さいきんのクルマのバンパーは樹脂製で、どんどん大きくなっている。
大きなそれを、薄く、均質に成形するために、4000トンものプレス能力が必要になる。
1分間にひとつのバンパーを射出成形する能力があり、24時間シフトで稼働している。
生産プランに従い、金型を換える、が、金型は鋼鉄の塊で、軽くて15トン、重いものだと23トンもある。現行の車種も多数あり、製造がうち切られて以降も数年間は部品の供給責任があるため、この工場には数百個の前後バンパー金型があり、その交換は、写真奥のクレーンとコンベアによってシステマティックに成され、西岡さんは、そんなあれやこれやを、別室にあるコンピュータで制御しているというわけだ。
「ペットボトルがこんなに増えたの最近のことでしょ」
……?
「ペットボトルはブロー成型というんですが、樹脂成形はまだここ20年くらいの技術で、これからの分野なんです」
なるほど、クルマのバンパーが樹脂製になったのも、比較的最近のことだ。
樹脂には、軽い、割れない、凹んでも戻る(こともある)、リサイクルが効く、さまざまなカタチに成型できデザインの自由度が高い、など、金属製のバンパーにないメリットが多々ある。
「将来は、エンジンやサスペション、駆動系などシャーシ以外はほとんど樹脂製になるかも知れません。
軽くて燃費が良くなるし、リサイクルも可能、万一の事故でも人へのダメージがすくなく、形状記憶樹脂ならちょっとぶつけたくらいなら平気だし……」
技術者である。
技術的に成長している分野で仕事をしているからこそやりがいがある。
成熟した分野で、コスト削減とか生産性の改善しかやることがなかったら、退屈だろう。

1961年、広島県の、瀬戸内海の小さな島で生まれた。
成長期に、シラス干しを大量に食ったおかげで一生ものの頑丈な骨格を得た。
航空業界に進みたくて、航空工学部に進んだが、85年当時、業界には求人がなかった。
自動車業界は景気よく、日産はロケット開発も行っていたので、同社に入社、現在の追浜工場に勤務する。
しばらくは仕事を覚えるのに一生懸命で、オフどころではなかった。
入社2年目の夏、同僚に誘われ、三浦にドライブに行き、ウインドサーフィンを見て、ああ、いいなあと思った。5歩ほど走れば海に飛び込める環境で少年時代を送ったのに、ずっと海から離れていた。
海でスポーツする、というアイデアに興奮した。
これならクルマで運べるし、テニスやスキーよりもユニークだし。
しかし、社会人2年生で、クルマもなく、丸井で見ると、20万以上もする。とてもそんな余裕はない。
友人のつてで初体験。
一発で心を奪われた。
一発で乗れたからではなかった。
立てもしなかった。
十代のころはずっと陸上をやり、運動能力には自信があったが通用しなかった。何度も何度も海に落ちては這いあがって笑う、それが新鮮だった。
学連のお下がりのウインドサーファー艇を手に入れ、それから週末は三浦に通うようになった。
強風の日、ランファン275で出て、セイルアップできず、ウォータースタートはまだできず、津久井浜から野比海岸まで流されたこともある。
現在の奥様とも、ウインドサーフィンで知り合った。
駐車場が無料だったという理由で三浦から移った長者ケ崎で、セッティングに戸惑っていた彼女を助けた、というよくある話。西岡さんが26、奥様が23、それからは二人で海に通うようになった。
奥様も、スラロームボード、ウェイブボードに乗り、ウォータースタートはもちろん、レイルジャイブとはゆかないが、一応のジャイブもこなす。彼女はもともと水泳選手であり、現在はトライアスリートでもあり、宮古島の大会などをたびたび完走している。
三浦で沈をしまくった、初体験のあの日から14年。
西岡さんは基本的にずっとウインドサーフィンに熱中しているが、最近3年間ほどブランクがあった。サムソングループの自動車部門に技術供与するため韓国勤務になり、物理的にウインドサーフィンできなかった。
帰国すると、子供ができたとか、不景気でそれどころではないなどの理由で、一緒にセイリングした仲間がウインドサーフィンを止めていた。
かなりがっかり、たそがれていると、逗子マリンブルーの岡田和夫プロに声をかけられた。
西岡さん、レースやれば? 
そのカラダも、もったいないし。
ずっとフリーセイリングをやってきたが、そうか、レースか、目的意識をもってやれば、ウインドサーフィンがもっと楽しくなるかも知れないな、と勧めに従ったが、その効果は予想以上だった。
週末、かれは、友だちでライバルの石垣さんと、少年のように待ち合わせ、一台のクルマで三浦に行く。
レースすることで、チューニングや、風の読みや、ヨロコビや悔しさが増えて、ウインドサーフィンが濃くなった。
風が吹き、エアチケットが安いという理由で、毎年6月は、奥様と10日から2週間マウイに行く。
以前はカナハで乗りまくるだけだったが、マウイレースシリーズに参戦するようになった。
余談だが、カナハで沈し、セイルに手をついたとき、小指の関節が外れて手前を向いた。慌てて戻すと関節がはまった。それほど痛まなかったこともあり、奥様には内緒にして(バレるとウインド禁止令がでるため)、帰国の日までセイリングしまくった。
後日盛大に腫れて、奥様に叱られ、指が曲がらなくなり、現在もリハビリしている。
それほど岡田さんは好き者だ。
目標は? と聞くと、照れて、やや大それているのですがと前置きし、三浦レースシリーズのオープンクラスで表彰台に登ること、という。

葉山一色に、小さいけれど気持ちのいい家も建てた。
自宅と、職場と、海が、数キロ以内にある。
その間にあるのは三浦半島の緑。
フレックスタイムを利用すれば、朝、海に出て、午後から出勤することもできる。3つの生活が、ストレスなく、時間差なく、つながっている。
——風や波は毎日ちがうし、海に出る自分の、フィジカル・メンタルコンディションも毎日違うでしょ、
とかれはウインドサーフィンの魅力をいう。
それに、
「技術者として、ウインドサーフィンというシステムを尊敬できるんですよ」
風というファジーなものを動力源にして、それほど大きくないセイルで、軽いとはいえない自分を、あんな高速で、あんなに長距離、運んでくれる。
とんでもない装置だ。
ファットヘッドセイルにフルバテンが入り、リーディングエッジにキャンバーが入り、レースボードからダガーがなくなり、アルミのブームがカーボンになり……という技術革新を、リアルタイムで、我が身で体験してきた。それらは技術者である自分にとっては、面白く得難い経験だったという。
しかし、ひとつ不満がある。
進化したといわれるプロダクションボード。
そのシェルは樹脂成形技術によるが、エキスパートの西岡さんにすれば、工作精度、継ぎ目のフィニッシュなど「まだまだ見てられない」らしい。