……………… YOKOHAMA FREESTYLE その、奔放、かつ、スタイルがある、住宅と生活 ………………

住宅は、生活アミューズ
メント施設であるべきだ

■本牧の"BOAT HOUSE" 
建築家・滝本学氏の自邸


「建築家は、単なるアーティストであってはいけないが、クライアントのアートプロデューサーであらねばならない」<br> 建築家・滝本学氏の持論である。芸術性や象徴性に拘泥するあまり、実用性を失うとむろん本末転倒である。実用性に欠ける住宅は、快適性と、住む人のアミューズメントを阻害するから。<br> ──アミューズメント。ここでいうアミューズメントとは、滝本用語における、「生活を色っぽくする芸術・娯楽性」といった意味である。<br> 種々の制約や限られた予算のなかで、実用性を実現したうえで、いかに、クライアントが潜在的に持つアミューズメントを引き出し、高級で色っぽい住宅を実現するか。それが住宅デザインにおける氏のテーマである。 "BOAT HOUSE"はテーマ実現のためのひとつのコンセプトであり、ここに紹介する物件──自邸という一作品──も同コンセプトに拠る。では、この自邸がなぜ"BOAT HOUSE"なのか?

■ 米国で教育を受けた滝本が──それが氏の仕事を個性的にしている──インスパイアされたひとつの素材に、米国やカナダのボートハウスがある。波の影響を受けない、河口やラグーン、湖などの広い水辺に邸宅を構える。住宅には桟橋があり、友人のクルーザーや水上飛行機はそこに舫う。自邸は水辺をまたぐように建ち、自分の艇は屋内ハーバーに引きこむ。
ハーバー脇には使い込まれた工具が揃うメンテナンスブースやカウンターバーなどちょっとした遊びのスペースがあり、そこから螺旋階段を上がってゆくとグレートルーム(リビング、ダイニングなど住宅のパブリックスペース)に出る。
むろん日本ではボートハウスは非現実的だが、「そこにある濃縮されたコンセプト、豊かさ、アミューズメントをフリカケにして」日本の住宅を色っぽくする。それが"BOAT HOUSE"コンセプトである。
娯楽性ばかりがアピールされがちだが、実は実用的でもある。ボートハウスは、水際と、陸側の本来の玄関と、二つのエントランスを持つ。
滝本邸の間口は壁の芯芯で5.8mしかないが、"BOAT HOUSE"コンセプトが、この間口で、人と車の動線をどう独立、確保するかという問いに解を与えている。
ガレージのエントランスはいわば「男の勝手口」で、滝本氏の男友達も気軽に立ち寄り、一杯飲んで帰ってゆく。2階の玄関からグレートルームに通されると「訪問」になって奥様に気を使いもする。
氏自身も、夜クルマで帰宅した際、すぐに上に上がらず、仕事モードの余韻をここで一杯飲むことでフェードアウトさせたりする。""BOAT HOUSE"は生活の局面を多様化するのだ。
写真を見て、ああガレージハウスねと思った向きもあろうがそれは違う。
「狭小住宅は、互いが互いの機能を侵食するようにデザインすることがコツ」と──滝本邸は敷地面積33坪、延床面積61坪で、いわゆる狭小ではないのだが──氏は言う。
「クルマを意識しすぎてガレージを作ってしまうと、クルマを出したとき、空きガレージでしかなくなってしまう」
写真を参照、壁はレンガだし、床はコンクリートではない。クルマを出してビリヤード台を置けばプレイルームになるし、書架なら書斎になる。

先述のとおり氏は80年代、アメリカ・オレゴン州ポートランドで建築を学んだ。欧米の建築教育は「内側」重視で、「60年代のジョージアンスタイルはこうだから猫足の家具はミスマッチで」といったふうに、インテリアの historical detail を徹底的に叩き込まれる。手触り、居心地など、内側、インテリアから建築を構築してゆくことが身に付く。
そこで育った滝本氏である。ディスカッションに際し、クライアントに最後まで平面図を見せない。クライアントも平面的思考はできるため、平面図を見せると囚われすぎてイメージが膨らまない弊害があるからだ。
氏は、その場でグレートルームをフリーハンドでスケッチし「クライアントのアミューズメントがどこにあるのかを探ってゆく」
スケッチするのは間取りではない。朝はこういう光のなかで珈琲を飲み、夜はシアトリカルに光が暗転して落ち着きを与え、といった「生活のシナリオ」である。
完成したそれを壁と天井で囲み、内側と外側を摺り合わせてゆき、デザイン決定、図面に起こすのは最後になる。「シナリオスケッチ」は、図面や3DCGよりはるかに情報量、すなわちイメージ喚起力が大きい。
クライアントのイメージそのものが実際に建つので、仕事も円滑でロスが少ない。
ちなみに欧米では「シナリオ」を描ける者がアーキテクター(建築家)と称され、それができない者は単にドラフティングデザイナー(設計士)と称される。
インテリアにこだわる氏は、建具を含めてデザインし、家具も含めたプレゼンをすることが多い。この自邸にも、自ら日本向けにプロデュースしたカーサ・イタリアや米国ペラ社の建具を使っている。
両側にバルコニーが配され風が抜けるLDKには、光が透過するドアのポリカーボネート、白木、アルミ、漆喰、レンガなど多種の素材が使われているが、不思議な統一感がある。
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予定調和なそれでも、モダンとかクラシックといったカテゴリーに括れるそれでもない。それが達人の職能だから、とすればそれまでなのだが。
忘れていた。横浜特集である。
建築家滝本学はなぜ、横浜に、事務所と自邸を構えているのか?
事務所の主要な仕事は、大手ディベロッパーをクライアントとして、ホテルや集合住宅、店舗、リゾートなどのコンセプトメイク、デザインコンサルティングを行うことである。
その事務所の仕事で海外に行くことも多いが、「日本的なるものはかなりカッコ良く、それを海外に発信するのはそう遠い仕事ではないのでは」と実感する。
氏の短中期的目標は、建築を含む住環境においてネオジャパニーズスタイルを確立し、それを、住宅建築や住環境先進国とされる欧州など海外に輸出することである。
そのとき、from JAPANでは弱く、
from YOKOHAMAでないと、と氏は言う。
「世界のどの町に行っても、帰ってくるとやっぱり横浜、と思う。精神性みたいなものが高いし、文化も都市的利便性も自然もあって、住み心地がいい」
自邸の将来計画は?
「本牧のここは商業地域だから、子どもが独立したら、女房が店をやることもできるし。山手あたりの眺めのいい土地を探して、数寄屋造りの家を建てたらかっこいいかなとかね。知ってます? 数寄屋って前衛で、その時代のネオジャパニーズスタイルなんですよ」
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ウィークデイ・バチェラー

■COO・後藤氏は、みなとみらい
超高層マンションに、平日単身赴任


■ 後藤氏は、横浜市西区で、石油製品販売会社を経営、県下で30のガソリンスタンドを運営されるなどしている。祖父が創業、氏は4代目社長である。
世に楽な仕事は無いだろうが、氏の仕事はとくに厳しいもののひとつであろう。現在の原油価格高騰は第3次オイルショックとも言われるが、73年の第1次ショック以降世界情勢に翻弄され続け、国内ではぎりぎりの価格競争にさらされる。現状を乗り切るだけでは不足で、近未来の枯渇に対する、次世代ビジネスのビジョンを持たねばならない。
多忙である。
自宅は茅ヶ崎で、実母と妻、11歳、9歳の子供ふたりの、5人で住んでいる。通勤に往復で2時間半取られる。夜はビジネスがらみの宴席になることもある。運転できないから、会社に泊まることもしばしばだった。
けれど生活の拠点を、生まれ育った茅ヶ崎の実家から会社近くに移すことはできない。40年間この家で生まれ育った愛着があるし、海、土、犬猫に囲まれた生活は捨てがたい。
後藤氏は、他に妙案も無く、多忙さ、不便さに甘んじていたが、昨年、極端な方法で問題を解決した。
みなとみらい21地区の超高層マンションの一室を購入したのである。
前述のとおりそこに家族で引っ越すわけではない。いわば平日単身赴任用のセカンドハウス、100万ドルの夜景(表現が昭和で、みなとみらい的ではないですね)つき、海抜100mの独身寮である。
仕事のために、山手、元町あたりに小さなマンションを借りようかと考えたことすらなかったのに、この物件を知り、購入に踏み切るまで、逡巡はほとんどなかった。
「これだ」と思った。
40歳になろうとする自分、家族や仕事のこれからを考えると、大きな買い物をして自分に活を入れるのも悪くないと思った。
手に入れた部屋にはしかし、期待以上の価値があった。入居後しばらくは自転車で会社に通った。いまはサボってクルマを使うが、車庫から出す時間を足せば、自転車の方が早い。
04年2月に開業したみなとみらい線「みなとみらい」駅の改札までは、リビングから5分。
横浜まで3分、渋谷まで31分である。そんな立地的利便性は期待通り。
期待以上だったのは、なんといってもこの眺望。南東の角部屋だが、東の窓の真っ正面にベイブリッジを望むこれ以上は無い特等席。言葉よりはるかに雄弁な、本誌カバー、および19ページのそれを含む写真を参照されたい。
ここでは食事を作らない。酒のグラスと茶器以外の食器もない。だから生活感は全くない。仕事を終え、中華街や元町、本牧のお気に入りのレストランで食事を済ませ、このリビングに帰る。時間的余裕があるぶん、じっくり読書が愉しめる。
ある朝目覚めると、飛鳥(日本郵船の豪華客船)がベイブリッジをくぐって入港するところだった。大さん橋に着くまでずっと眺めていた。
住んで初めて、眺望という環境性能には、気持ちを昂揚させる機能も、落ち着ける機能もあると知った。
機能的には平日単身赴任のためのセカンドハウスであるのだが、ここは毎日帰ることができるリゾートでもある。週末に帰る、家族のいる茅ヶ崎の家ももちろんリゾート。ご家族にとっても、みなとみらいのこの部屋はリゾート。生活のフェーズが、この物件により多重化し、相互に相互の価値を高めたのである。
ビジネスでも役立っている。接待の場として、ホテルのバーやレストランよりよほど親密で気が利いている。
横浜港で開催される年3回の花火大会は、真正面眼下の台船から射出される。
花火は目線やや上で割れるから、リビングのソファに座ったままでも鑑賞できる。花火大会の夜、仕事仲間や家族を招くことも恒例となった。

──それにしても、セカンドハウスにこの投資は贅沢、と思われる向きがあるかも知れない。
否、投資としても手堅いのである。
湾岸を中心にタワーマンションが林立しているが、この物件──言い遅れた。三菱地所・前田建設工業JVによる"M.M.TOWERS"──は、one of themではなく "only one"であるからだ。
なぜか? まずこの物件は、官民一体となって街作りされてきた、みなとみらい21地区に立地する。それは埋め立て、地盤改良工事に始まり、地域冷暖房システムや光ファーバーをも収めた共同溝、災害時の飲料水備蓄施設、広い道路や公園、電柱のない街区、病院、文化商業施設、みなとみらい線開業とインフラを整えていった。それは単なる安全性や規模機能に留まらず、建築外装色を含む景観管理など「美」にも強く及んでいる。
中小地域や旧市街、工場跡の再開発が通例の一般的超高層マンションと違い、ベースのインフラそのものからトータルデザインされているのだ。
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"M.M.TOWERS"は、横浜ランドマークタワーを始め継続的に同地区の開発を行ってきた三菱地所が手がけた地区初の住宅であり、眼下にパシフィコ横浜、臨港パークと続き、その先は海。
いわば横浜港とベイブリッジに臨む砂かぶり席的な、最高の立地を得ている。マンションそのものも100年性能を謳い、その重要な一環として積層ゴムとダンパーによる免震構造が採用されている。大地震時も免震装置上部の建物部分はゆっくりと揺れるのみで、躯体ダメージと居住者への被害をミニマムに抑える。
都内各所でエレベーターが止まった、先の首都圏直下地震時、後藤氏は会社にいた。キッチンカウンターに、ホールインワン記念に友人から贈られたクリスタルの置き時計を置いていて、それが床に落ちていたら厭だなと思ったが、帰ると時計は1mmも動いておらず、「ほう」と感心したという。もちろんエレベーターも止まらなかった。
建築は、このいわば免震土台の上に、地上階建築を支えるコアウォールが立ちあがる構造になっている。これにより居室から構造を支える梁や柱を排除することができ、地域冷暖房システムにより空調の室外機が不要なことも相まって、大空間、大開口の、開放感がある暮らしを実現している。
さらに(梁、柱がないことにより)←半角に、リフォームもしやすく、将来のライフスタイル変化に対応する。
上記は「100年品質」の一例だが、このような居住性能、資産価値により、同マンションは好調な販売結果を得て、竣工2年を経た今も、中古物件発生を待つ方が多数おられるという。

後藤氏は、みなとみらい21地区の開発をずっとみてきた。
20歳のころ開発が始まり、30を過ぎたころ横浜ランドマークタワーが竣工。そして、40歳を目前として本物件が分譲された。人と不動産の、幸福な出会いの一例と言えよう。

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「百年住宅」は横濱に、じつは
すでに多数現存している

■築72年。磯子の洋館付き住宅を再生する

住宅の平均耐用年数は、イギリスが140年、アメリカが100年、しかしわが国ではわずか2-30年でスクラップ&ビルドされる。高度成長期ならそんなあり方も意味があったが、21世紀に至り、出生率低下による人口減、環境負荷が深刻になり、住宅メーカーなどが盛んに「100年住宅」を喧伝するようになった。
しかし、実は我が国の建築史において、100年住宅はすでに実現しているのである。正確に言うと、現存する、ある住宅のジャンルがすでに築7、80年を経、100年耐用するポテンシャルを有している。
その住宅は、木材、紙、漆喰など(多くの場合地元産の)自然素材によって建てられ、要所を補修、更新すれば、充分に100年、3世代耐用するようにデザインされている。
補修の時に出る廃材は土に還り、更新に必要な木材は、森の成長にシンクロし、エコシステムに適う。この家を建て、補修する大工や職人もその技を子弟に伝えて世代交代してゆく。使い捨てとは対極にある、循環型システムが成立していたのである。
その「100年住宅」は日本各地に現存するが、とくに横浜に多く、確認されたものだけでも338棟を数える。
「洋館つき住宅」という。
我が国本来の和風住宅に、続き棟で一間の洋館が併設された住宅である。
明治期、政財界の大物が、広壮な敷地に洋館と和館を独立して建て、洋を迎賓など「公」、和を居宅という「私」と使い分けた。
その贅沢さ、格調に憧れた、やや富裕な中流層が、大正デモクラシーという文化意識も手伝い、関東大震災後、大正末期から昭和初期にかけて洋館付き住宅を建てた。それはひとつの流行となり、文化住宅とかハイカラ住宅と呼ばれたそれらは街角の顔になり、主はステイタスと責任を感じ、大切に維持することが常であり、元々の造りがしっかりしているので、現在も良い状態で維持されている物件が多いのである。
この物件が立地している磯子区磯子は、洋館付き住宅銀座といっていいエリアである。
磯子は明治期より半農半漁の活気ある土地だった。現在の産業道路付近が海岸線、残堀川の船運が盛んで、江戸前の魚貝を捕る漁師の番屋が建ち並んでいた。
大正に入って市電が開通し、屏風ヶ浦などで住宅開発が始まった。
磯子は付近に屏風浦、根岸、間門の海水浴場を擁する、いわば臨海リゾートであり、この物件がある旧磯子街道沿いは、根岸丘陵の雑木林が麓の松林に続き、海を間近に望むとくに風光明媚な場所だったから、関内あたりの成功者が、こぞって別荘や妾宅として洋館付き住宅を建てた。住宅には必ず女中部屋があり、地元の娘を雇ったので、地域との濃密な交流もあった。
ここで紹介する物件は、初代当主が自邸として昭和9年に建てたもので、現在の当主は3代目となる。昭和9年は1934年だから、築72年になる。

このK氏邸を案内してくれた兼弘彰氏(一級建築士・関東学院大学非常勤講師)は「よこはま洋館付き住宅を考える会」事務局長を務めている。
氏はある日偶然に洋館付き住宅に触れ、2、30年で使い捨てされる一般のそれとの、機能、思想、価値の差に目を洗われる。高度成長期のブルドーザー的開発、バブル期の地上げにも健気に耐えてきたそれらに愛情を感じもし、以後研究と保護に奔走するようになる。
氏によると、しかし洋館付き住宅は建築史的に、必ずしも評価されているわけではないという。血統書付きの、由緒ある建築ではなく、市井の「俗」な建築であるからだ。
建築史研究者の中には、我が国の伝統的和風住宅の血統を濁らせたと批判する向きもあるという。
なるほどこのやや強引な和洋折衷はアンバランスといえばいえる。が、そのアンバランスさが愛嬌となって、どこかかわいいとも感じるのだ。
もちろん平凡な建築ではなく、気取りはあるのだが、その気取りは、尊大で嫌みなそれではなく、たぶんに懐古趣味も手伝ってはいるのだろうが、一種のフォークロア、民間伝承的な親しみやすさがある。
日本の木造建築は法隆寺などの古典を見るまでもなく、世界一なのだが、伝統的になぜか「基礎」が手ぬるかった。K氏邸も例外ではなく、基礎の不同沈下によって、床が場所によって5cmも低くなり、柱が傾き、建具が閉じず、閉じても大きな隙間ができた。
兼弘氏によると、古民家が取り壊される大きな切っ掛けのひとつがこの、水平垂直の大きな傾きだという。家ががっくりと老け込んだと感じさせ、暮らしも不便で不安になり、再生の意欲を失ってしまうのだ。
当主K氏は違った。住宅を維持するためには人がそこで暮らすことが一番である。
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K氏は、現代レベルで機能的快適に、それも2世帯が暮らせる、再生を超えたフルリフォームに取り組んだ。
設計と指揮は兼弘氏。まず建築をジャッキアップし、基礎コンクリートを打ち直し、ホールダウン金物で建築と剛結、さらに耐震壁や火打ち材を加えて耐震性を固めた。
基本的にオリジナルを尊重するが、現代風の暮らしを実現するため大鉈も振るった。リビングの一部とキッチンなどを15mm厚のウリン無垢材フローリングにした。なんといっても光庭の追加だ。改築前は1階北側が昼でも薄暗かったが、光庭によって明るく、1階全体に風が流れるようになった。
改築は2年に渡り、2500万を超える改修費用がかかったが、それでも本来の半額程度という。宮大工や職人たちがこの物件を尊重し、記念碑的な仕事にしようと、半ばボランティア的に取り組んでくれた。
本誌の取材で、あちこちの洗練された素敵な家を訪れるが、ここほど落ち着けた家はない。昭和32年生まれの記者の実家はこんなに立派ではなかったが、便所の戸の木細工のスライドロックや、真鍮のねじ込み式の窓の鍵などがいちいち、記憶が始まったころの記憶とかぶった。
しかし考えてみればこの家は、そういう庶民性もありながら、貴族的なコストが費やされてもいる。
たとえば玄関の敷台である。一間以上の桁として渡されているが、厚みが2寸ほどある1枚板でびくともしない。
兼弘氏によれば欅で、樹齢200年に達しているのでは、とのことだ。撫でると手のひらが吸い付く。サンダーによる研磨では、こんな「面」はできないそうだ。宮大工が使う精巧なカンナと手技でないと。
その面を、女中たちがぬか袋で毎日、何十年も丹念に磨きあげた。この家は、そういう「気持ち」と「技」の結晶なのだ。
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海を望んで深呼吸する
中区の丘の家          

■クリエイター小林氏邸は
いかにして暖かいものとなったか

■ 小林氏(36)は、広告クリエイターで、例を挙げれば「ああ、あの」と誰でも知っているだろうCMをいくつも手がけている。その仕事で、元町、山手をロケハンしたことがあり、街の空気感や眺望に安らいだ。
結婚を控えてもいて、このあたりに家を持ちたいと不動産を探し始めた。
建て売りや、洋館の中古物件なども視野に入れたが、どうもこれだと思う物件がない。結局4年を費やして、この中区の丘の土地と、ある建築家に巡り会った。
この家が完成して1年になる。施工の過程も楽しいものだったし、住まいに期待していた、実用性以上の、
なんというか暮らしのシアワセ感が実現しているし、不満はとくにない。
そのいわば成功体験から、これから家を建てようとする読者にアドバイスを、とお願いすると小林氏、
「じっさいに、自分が持ってるイメージに近い家を建ててる建築家に頼むことじゃないですかね」と、ユニークではないが説得力のある回答。
氏自身、望む家のイメージはあり、なんとか風は厭、と好みも明快だったが、望む住宅像を具体的な言葉にはできなかった。
それが、建築家の事務所を訪れて、施工事例の写真や模型を見るうち、要するにこういうことではないかと、イメージとシンクロしたのだった。
アンケートを求められ、クルマが2台入るガレージ、広いキッチンや海が見える風呂が欲しい、といった要求で埋めていった。
図面が上がり、説明を聞きに行った。
まず感じたのは、自分たちが「理解されている」ということだった。
そのプランは、将来にわたる生活の要求を(スタティックではなく柔軟に)満たすものだったし、旅で、すこし背伸びしたホテルを選ぶような、ケとハレでいうハレ感も孕んだものだった。

プランを作った諸我尚朗氏(アトリエアルク代表・神奈川大学非常勤講師)は、横浜湘南地区で住宅を多く手がけている。RCもS造も守備範囲だが、「建築の内と外を分かたず、風と光が自由に出入りするような」木造住宅が好きである。
「木も呼吸するからね、木もそこに暮らす人も、深呼吸できるような」
となると壁で保たせそこに開口部を穿つ2+4ではなく、柱と梁で組んでゆく在来工法が面白い。
小林邸のおもしろさは断面にある。2階が天井高4.5mの吹き抜けになっているのだ。敷地のチャームポイントはなんといっても海が広がる眺望だから、東南面をほとんど──2階は4.5mの高さの広大な──開口部とし、さらに特等席たる屋上デッキも設けた。その防水性を確保するためにもかなりの強度が要求される(地震で構造がずれると雨漏りの原因となる)
2階の大空間と強度、という要求を満たす回答が剛床構造である。2階の床下と、吹き抜け部、および天井に半間ピッチで梁を渡し、水平剛性を確保。さらに柱間に丈夫な構造用合板を張り、2+4的な壁強度を与えた。
空間的には贅沢だが、コストは抑えられている。内装はあらわしで(固定資産税も軽く)、柱は杉(通し柱は檜)、梁は松、壁紙は吸湿性があるパルプ繊維クロス、
外装はガルバリウム鋼板、アルミ素地の小窓覆いなど、一貫して比較的安価かつ質実で耐久性のある素材が使われている。ゴージャス感はないが、素材が無垢の剥きだしなので、ざっくりとして心地よい。
エクステリアで特徴的な、2階の窓全面を覆うメッシュは、RC打設時などに使う工事用のステンレス製ワイヤーメッシュという。
この窓はフィックスというプランもあったが、それでは風が入らず、外面も拭けないので、開くようにし、掃除のためのキャットウォークを設け、子どもの安全のために全面そのワイヤーメッシュで覆った。
ガレージ上の一階ウッドデッキは、3.5mほどの高さがあるため、腰高の柵を設けた。
が、当時2歳だった長女が脚立に登って遊んだりしたため、これでは不足と、柵を2重にしたうえ、プランタースペースを設けた。
1階の天井は24mm厚の構造用合板で、2階床の下地材を兼ねている。低コストで、空間を20cmほど高く使え、2階への階段も1段低くできる。しかし欠点もあって、遮音材を張ってるといえ通常より音が響くのだ。
「奥さん、多少音は響くけどいいよね、家族で住んでるんだから」と、諸我氏は同意を求めた。
住んでみると、キッチンにいても、
2階にいる、まだ小さい子どもが立てる物音が聞こえて、かえって安心できると奥様は言う。
この家は、そういう現場でのすり合わせを重ねて建てられ、暖かいものとなった。

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リビングの先は礼拝堂

■八景の牧師、71歳。その職住・
公私一体ライフスタイル

■ 金沢区八景の野島には、横浜市唯一の自然海岸が残っていて、野生のアサリが採れる。日本の原風景のひとつといっていい古い松林が広がり、芝生の、無駄な装飾や設備のない公園になっていて、付近の小学生が写生に来る。そのたもとに日本キリスト教団の教会が建っている。国内には1600の教会があるというが、この立地はトップレベルであろう。
第二次世界大戦中、野島は飛行機の格納庫など島全体が軍事基地になっていて、民間人は立ち入り禁止だった。戦後、横浜市は島全体を公園にしようとするも、財政難のため一部を宅地として売却したが、乙舳町の海岸線に面したこのあたりは、伊藤博文の別荘(明治憲法記念館となっている)を保存していたこともあり売却しなかった。
その現在の場所に、横須賀に進駐した米軍の教会の援助もあって、教会が建てられたのである。とはいえカマボコ型の兵舎を利用したそれは会員15名規模の小さなものだったが、ほんの3年前まで現存していた。
立派な現教会に建て替えられたのが2年前である。その、併設された牧師館に住み、「金沢八景教会」を守っているのが、井上喜雄牧師である。
井上氏は昭和9年、京都に代々続く、浄土真宗門徒の家に生まれた。12歳の時に敗戦。多感な時期に、その世界観価値観を、日本もろともひっくり返された。
進駐軍は、家電に囲まれた豊かな暮らしやチョコレートや風俗や、雑多なものを伴って日本に入ってきたが、その重要なひとつにキリスト教があり、昭和24、5年頃ひとつのブームになった。
若者はいつも新しく未知なるものに惹かれる。そこでは誰もが平等であることが、教会を訪れた井上少年に、胸を開くような衝撃を与えた。
日本はそうではなかった。家庭にも家長を頂点とした、厳とした上下関係があり、京都の生家はその風習が強かった。高校生の時には牧師になると決めてた。両親や親戚からは井上の家から異端が出たと非難されたが、氏は同志社大学神学部に進み、卒業後、10年という最短コースで、日本キリスト教団の牧師になった。京都の教会に12年、鶴川の神学校に4年、東京都民教会で19年務めたのち、経営のことは分からずとも、トップは牧師が良いだろうと、キリスト教関係が運営する特別養護老人ホームの長を10年務めた。
その後、70歳になる前に引退していたのだが、この教会に招へいされた。もともと横浜は好きだったこともあって快諾、今春、新生「金沢八景教会」の3代目牧師となった。
吹き抜け、ステンドグラスで明るい礼拝堂は80人収容で、プロテスタントゆえの聖餐室(パンと葡萄酒を準備する部屋)があり、教会としては中規模という。
説教や訪問以外の時間は、教会奥の牧師室(執務室)にいることが多い。壁一面に書架がしつらえられ、神学専門書ほか、「脳と心」「意識とは何か」といった書籍、それに1000枚のクラシックCDがある。バッハのカンタータなど礼拝曲は、仕事にも関係するのかも知れないが、あくまで個人的な趣味とおっしゃる。
そのコレクションを──クラシック音楽は信仰に重要な、イメージを広げてくれるからと──アキュフェーズのパワーアンプで鳴らせつつ、牧師はパソコンに向かう。説教を完全原稿に起こし、信者に配るので、その原稿を書くためだ。パソコンは67歳の時に習得した。
プロテスタントの牧師は、妻帯し、一般的な家庭生活を持つことができる。
このため教会には牧師館と呼ばれる住宅が併設されることが常である。
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教会と居宅は廊下で繋がっていて、ドアは常に開かれている。
かつて、牧師は公私を区別しないこと、とされた。ところがプロテスタントの場合、奥様がキリスト教徒でないこともありえ、教会は基本的に開かれているものだから、信者を含む他者が生活の領域に踏み込んでくると、奥様としてはつらい。
プロテスタントも近代化(?)して、最近は公私を分かつ牧師が増えてきた。しかし井上牧師はいまも鍵を掛けない。キッチンに入って、冷蔵庫を開ける信者もいなくはないが、自然、互いがプライバシーを尊重するようになるらしい。
それにしても、職住近接どころか、職住・公私一体ライフスタイルである。公私とも緊張感を保つ必要があって大変だろうと、俗な記者は思うが、40年間聖職に就いている牧師は、肩の力を抜いて、そんな生活を楽しんでおられるようだ。
毎日の散歩が日課となっている。見晴らしの良い丘陵とか、コースには事欠かない。
ご健康のためですか、と聞くと、
「いえいえ、だってもったいないじゃないですか、こんな素晴らしい場所に住んでいるのに」と、微笑んだ。